13世紀最大の危機「元寇」。実はモンゴル帝国は当初から日本侵略を計画していたわけではなく、10年間で6度も使者を送った外交交渉の決裂が原因でした。
この記事の目次
理由1:属国・高麗の「妨害工作」
交渉失敗の最初の理由は、当時すでに元の属国であった高麗王朝の非協力的な態度でした。もし元が日本を攻めることになれば、高麗には莫大な軍事費負担が発生します。それを恐れた高麗は、あの手この手でモンゴルの使者が日本へ渡るのを妨害したのです。
- モンゴル帝国(元)の皇帝フビライは、日本との交渉のため10年間で6度も使者を送っていました。
- 高麗は、元による日本侵攻が始まれば、自国に莫大な軍事費負担が発生することを恐れていました。
- そのため、元の使節団がスムーズに日本へ渡航できないよう、様々な妨害を行いました。
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理由2:日本側の「外交オンチ」と情報不足
次の理由は、鎌倉幕府と朝廷の「外交オンチ」ぶりにあります。遣唐使の廃止から400年以上、大陸から離れていた日本は、ユーラシア大陸を席巻するモンゴル帝国の恐ろしさが理解できていませんでした。そのため、面倒だからと返事をしなかったのです。
- 遣唐使廃止から400年以上が経過し、日本は大陸の情勢に疎くなっていました。
- 当時モンゴルに攻められていた南宋から「南宋が滅べば次は日本だ」という情報が入り、幕府は警戒心を強めました。
- 結果として、日本はモンゴルの使者を無視、あるいは警戒して外交交渉を拒否する道を選びました。
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【まとめ】最大の理由はマルコ・ポーロの「デマ」?
高麗の妨害、日本の外交オンチ、南宋からの情報による警戒心など、様々な要因が重なり、10年越しの交渉は決裂し元寇に至りました。しかし、動画では最大の理由として、ベネチアの冒険家マルコ・ポーロが「日本は黄金の国です」とフビライをその気にさせた「デマ」のせいかもしれない、と締めくくられています。
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世界史のなかの蒙古襲来 モンゴルから見た高麗と日本/扶桑社/宮脇淳子
Q&A:よくある質問
Q. モンゴルは最初から日本を攻めたかったのですか?
A. いいえ、最初は侵略目的ではなく、10年間で6度も使者を送り、外交交渉(国交)を求めていました。
Q. なぜ日本はモンゴルの要求を無視したのですか?
A. 遣唐使廃止から400年以上経ち、大陸の情勢に疎くモンゴルの恐ろしさを理解していなかったことや、南宋から「モンゴルは危険だ」という情報を得て警戒したためです。
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