
太平洋戦争末期、神風特攻隊として散った一人の日本兵が、敵国アメリカ軍によって「英雄」として、最大限の敬意をもって葬られていました。
この記事の目次
特攻隊員「石野節雄」の突入
大東亜戦争末期の1945年4月11日、沖縄の空で「石野節雄」二等飛行兵曹は、神風特別攻撃隊としてアメリカ軍の戦艦ミズーリ号に直進しました。激しい対空砲火の中、石野の零戦はミズーリ号の司令塔へと向かい、機体は衝突しました。
- 石野節雄二等飛行兵曹は、零戦に乗り特攻隊として戦艦ミズーリ号に突入しました。
- 機体は激突しましたが、搭載されていた250kg爆弾は不発に終わりました。
- この衝撃で、石野兵曹の上半身だけが甲板に残されました。
敵艦長が命じた「最も丁重な儀礼」
戦艦ミズーリ号の艦長ウィリアム・キャラハンは、石野兵曹の勇敢な姿に深く心を打たれました。「敵兵でも死してのちは敵ではない。彼は祖国のために命を捧げた英雄だ」と述べ、彼を最も丁重な儀礼で葬るよう命じたのです。
- 石野兵曹の遺体は、米兵たちが手作りした「旭日旗」に包まれました。
- 儀礼では礼砲5発が鳴り響き、米兵たちは深い敬意を込めて石野兵曹に敬礼を捧げました。
【まとめ】敵国の兵士が認めた「英雄」への敬意
戦艦ミズーリ号のキャラハン艦長は、たとえ敵であっても、祖国のために命を捧げた石野兵曹の姿を「英雄」と認め、最大の敬意をもって水葬しました。このエピソードは、戦争という極限状態の中にも確かに存在した、国境を超えた武人への敬意を示しています。
Q&A:よくある質問
Q. アメリカ軍はなぜ日本の特攻隊員を丁重に葬ったのですか?
A. 戦艦ミズーリ号の艦長が、石野兵曹の勇敢な姿に心を打たれ、「彼は祖国のために命を捧げた英雄だ」と判断し、最大の敬意をもって葬るよう命じたためです。
Q. どのような儀礼が行われたのですか?
A. 石野兵曹の遺体は、米兵が手作りした旭日旗(赤い太陽と16本のラインが描かれた旗)に包まれ、礼砲5発が鳴り響く中、米兵たちの敬礼を受けて水葬されました。
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