【動画解説】天皇家が一度断絶しかけた?|謎多き「継体天皇」が救った皇統の危機

26/11/2025


 

コメントできるようになりました 織田信長

Emperor(天皇のシルエット)

 

第25代武烈天皇の後継がおらず、断絶の危機に瀕した皇統。それを救ったのは、遠く越前の国にいた「傍系」の継体天皇でした。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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皇統断絶の危機と「オホドノオウ」の抜擢

 

現在の皇室に直接つながる血筋のルーツとも言えるのが、第26代・継体天皇です。実は、その前の第25代・武烈天皇が子供を残さずに亡くなったため、皇統は断絶の危機に瀕していました。そこで白羽の矢が立ったのが、遠く離れた越前(現在の福井県)にいた地方豪族「男大迹王(オホドノオウ)」、のちの継体天皇でした。

 

  • 先代の武烈天皇に後継ぎがおらず、皇統が途絶えかけました。
  • 継体天皇は、5代遡ると応神天皇にたどり着くという、傍系の血筋を持つ人物でした。
  • 越前という地方にいた彼が、皇統を救うために中央へ呼ばれました。

 

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即位から大和入りまで20年かかった理由

 

 

継体天皇は即位しましたが、すぐに都である大和(奈良県)に入ることはできませんでした。なんと即位から20年近くもの間、王宮に近づけず各地を転々としたのです。その理由は、地方出身の彼を天皇として認めない大和の豪族たちとの激しい対立があったためと考えられています。

 

  • 大和の豪族たちとの政治的な対立により、都に入るまで約20年を要しました。
  • あまりに異例な経緯から、「皇室とは無関係の人物が乗っ取った」とする説(王朝交替説)も存在します。
  • しかし、彼のおかげで皇統は復活し、九州遠征や外交を通じて大和朝廷の勢力は拡大しました。

 

 

 

 

【まとめ】大和朝廷再生の救世主

 

継体天皇は、実在が確実視される古代天皇の一人であり、大和朝廷を再生させた救世主とも言える存在です。現在の皇室の歴史を語る上で、この謎多き天皇の存在は避けて通れない重要なポイントと言えるでしょう。

 

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Q&A:よくある質問

画像利用について01 織田信長 はてな

 

Q. 継体天皇はなぜ天皇になれたのですか?

日本史01 織田信長のポイント解説

 

A. 先代の武烈天皇に子供がおらず、5代遡れば応神天皇につながる血筋を持っていたため、越前の地方豪族でありながら後継者として選ばれました。

 

 

Q. なぜ都に入るのに20年もかかったのですか?

日本史02 徳川家康のポイント解説

 

A. 突然現れた地方出身の天皇に対し、大和の豪族たちからの反発が強く、政治的な調整や駆け引きに長い時間がかかったためと考えられています。

 

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