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蘆名盛氏とはどんな人?伊達氏と双璧、東北戦国大名の生涯

29/04/2021


蘆名盛氏

 

蘆名盛氏(あしなもりうじ)は、伊達氏(だてし)と並んで勢力を誇った東北の大名です。南奥州の制覇を巡り、中通りの支配を目論んで田村氏(たむらし)を攻撃しますが、同じく南奥州に勢力を伸ばしたい佐竹氏(さたけし)との間で長年の抗争を繰り広げる事になりました。

 

しかし、生涯側室を持たず子供も盛興(もりおき)1人だったため、盛興が29歳で急死すると、たちまち家督問題が起こり、これが遠因で蘆名氏は没落していく事になります。今回は、東北の戦国大名、蘆名盛氏を解説しましょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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大永元年、蘆名盛俊の子として誕生

名古屋城

 

蘆名盛氏は大永(だいえい)元年(1521年)に15代当主の蘆名盛舜(あしなもりきよ)の子として誕生します。天文(てんぶん)6年(1537年)16歳の時、東北の種蒔きスプリンクラー伊達稙宗(だてたねむね)の娘を正室に迎え、天文10年(1541年)には父から家督を譲り受けました。

 

自分の息子や娘を各地の戦国大名と縁組し伊達家の勢力を強化する伊達稙宗

 

その後、盛氏は天文12年(1542年)に山内氏(やまうちし)を討って会津における勢力を拡大します。

 

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天文の乱のキーマンに

領土問題で息子の晴宗と衝突し天文の乱が勃発。東北に戦国時代を招く

 

天文12年、伊達氏でお家騒動天文の乱が勃発します。当時、伊達氏の当主だった伊達稙宗は、非常な子だくさんであり、東北の有力な戦国大名に、息子や娘を送り込んで縁組し、東北のハプスブルグ家を目指そうとしていました。

 

ところが稙宗は、三男実元の越後国守護上杉定実(うえすぎさだざね)への入嗣を図ったり、婿の相馬顕胤(そうまあきたね)へ伊達領を割譲しようとするなど、桁外れの博愛ぶりを示したので、我慢できなくなった息子の晴宗(はるむね)が鷹狩り途中の晴宗を拉致して幽閉。

 

身内の救助で幽閉先を脱出した稙宗も晴宗を排除すべく東北の稙宗チルドレンを糾合して合戦に発展したのです。

 

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

蘆名盛氏は、当初は妻の父である伊達稙宗側につきますが、天文16年に同じく稙宗サイドの田村隆顕(たむらたかあき)と中通りにおいて衝突したのが原因で晴宗サイドに転じました。これにより晴宗サイドの優位が決定的になり、天文の乱は晴宗勝利で終結します。

 

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はじめての戦国時代

 

中通りを求めて田村氏と戦う

battle-Soldier(合戦に参戦する兵士)

 

天文19年(1550年)蘆名盛氏は、東北の交通の要衝である中通りへの進出を開始します。中通りとは、現在の福島県の中部にあたり、西に奥羽山脈と東に阿武隈高地に挟まれた南北に細長い地域で、交通の要衝でした。

 

その性質上、多くの在地領主が争う場所になり、中通り北部は伊達郡を本貫とした伊達氏、中部は三春を本拠地とした田村氏を初めとして名だたる武将が割拠します。

 

蘆名盛氏は、まず中部を攻略しようと田村隆顕と抗争を繰り返しますが、中通りを一強に支配されては都合が悪い常陸の佐竹氏が妨害し攻略は容易には進みませんでした。そこで盛氏は「敵の敵は味方」で佐竹氏と敵対する相模の北条氏(ほうじょうし)や、甲斐の武田信玄(たけだしんげん)と同盟して佐竹氏に対抗します。

 

武田信玄も気に入る蘆名盛氏

 

蘆名盛氏と同級生の武田信玄は、いつの頃かは不明ですが、「近頃優れた武将は丹波の赤井(あかい)、江北の浅井(あさい)、会津の盛氏、若手では三河の家康(いえやす)

 

この4人であろうか」と評したそうで、盛氏の有能ぶりが、武田信玄の元まで伝わっていた事が分かります。

 

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隠居後も外征を繰り返す

馬にのり凱旋する将軍モブ(兵士)

 

蘆名盛氏は内政面では金山開発に力を入れ、簗田氏(やなだし)商人司(しょうにんつかさ)に起用して流通支配の強化を図ります。

 

永禄(えいろく)4年(1561年)盛氏が長沼実国(ながぬままさくに)を攻めて本拠地黒川を留守にした時、兄にあたる蘆名氏方が富田義実(とみたよしざね)父子に担がれて反乱を起こしますが、盛氏はこれを数日で鎮圧、氏方は家臣と共に自害しました。

 

切腹する織田彦五郎(織田信友)

 

同年、盛氏は家督を嫡男の盛興に譲り大沼郡岩崎城に隠居し、剃髪して止々斎(ししさい)と号しますが、隠居後も政治と軍事の実権を掌握し引き続き家中の統制にあたります。

 

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二階堂氏を倒し、伊達氏と婚姻関係を結び和睦

伊達晴宗 

 

永禄6年(1563年)盛氏は須賀川城主の二階堂盛義(にかいどうもりよし)と戦い、岩瀬郡へと侵攻します。二階堂盛義は伊達晴宗の長女、阿南姫(おなみひめ)を娶っていたので伊達軍が二階堂救援の為に数度にわたり桧原に攻めこんできますが、戸山城主 穴沢信徳(あなざわのぶのり)が撃退します。

 

永禄9年(1566年)に二階堂盛義が降伏すると、盛氏の嫡男、盛興に伊達晴宗の娘、彦姫(ひこひめ)を嫁がせる条件で伊達・蘆名間でも和平が成立しました。

 

ところが、隠居していた晴宗が縁組に反発して輝宗と対立、困った輝宗は彦姫を一旦自分の養女とし、万が一、晴宗と輝宗が争えば盛氏が輝宗を援助する密約まで交わしたそうです。

 

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当主の盛興が29歳で急死、お家騒動に

軍議

 

天正(てんしょう)2年(1574年)盛氏は陸奥国信夫郡城主、伊達実元(だてさねもと)と共に田村氏傘下の二本松義国(にほんまつよしくに)大内義綱(おおうちよしつな)を破り田村清顕を従属させます。しかし、同年6月、家督を継いでいた盛興が29歳の若さで急死。盛興には子供がなく、盛氏にも他に男子がなかったので家督を巡る騒動になりました。

 

結局、盛氏は人質に取っていた二階堂盛義の子の盛隆(もりたか)に盛興未亡人を娶らせ、盛氏が後見人として政務を執る事になります。

 

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天正8年60歳で死去

幕末 臨終のシーン 亡くなる(死)モブ

 

蘆名盛氏はその後も、白河結城氏の家督相続問題に介入したり、上杉謙信(うえすぎけんしん)死後の御館(おたて)の乱に乗じて越後に出兵するなど積極的な攻勢に出ました。

 

三国志のモブ 反乱

 

盛氏は権力基盤を強化し、永禄3年から天正4年まで六度も徳政令を出せるほどでしたが、二階堂氏出身の当主盛隆に対して、反発する重臣たちとの不和や長年に渡る田村氏や佐竹氏との抗争による戦費不足で財政が傾き、蘆名氏の勢力は次第に没落へと向かっていきます。

 

天正8年(1580年)蘆名盛氏は60歳で死去しました。

 

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その後の蘆名氏

炎上する城a(モブ)

 

後継者の蘆名盛隆(あしなもりたか)は、無能ではありませんでしたが、本家である二階堂氏の勢力を盛り返そうと蘆名氏の勢力を利用し、その為に蘆名氏重臣との対立は避けられなくなります。

 

盛隆は越後の御館の乱に介入し、上杉景勝(うえすぎかげかつ)と敵対した為に、景勝の方でも直江兼続(なおえかねつぐ)に命じて蘆名氏の内部分裂を誘う工作をさせていました。

 

盛隆は、相次ぐ反乱を武力で鎮圧していましたが、天正12年(1584年)10月、本拠地黒川城で、寵臣大庭三左衛門(おおばさんざえもん)に殺害されます。盛隆の死の真相は不明ですが、男色関係の痴情のもつれとも言われているようです。

 

蘆名氏の家督は生後1ヶ月の息子亀王丸(かめおうまる)が継ぎ、亀王丸の母である彦姫が隠居した兄、伊達輝宗の後見を受けて蘆名氏をまとめる事になります。

 

しかし輝宗は幼少の亀王丸ではなく実子小次郎(こじろう)の擁立を考えていたようで、亀王丸の擁立はむしろ常陸の佐竹義重(さたけよししげ)の介入で実現した事でした。蘆名氏家督を巡る佐竹氏と伊達氏の対立は蘆名氏の弱体化に拍車をかけますが、この状況下で亀王丸は僅か2歳で疱瘡(ほうそう)に罹り死去。

 

暗殺(寝ているシーン)モブ

 

次の家督を巡り、伊達政宗の弟の小次郎と、佐竹義重の次男、義広(よしひろ)が争います。最終的に蘆名氏は伊達政宗により天正17年(1589年)には領地を奪われ、戦国大名としては終焉を迎える事になりました。

 

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三国同盟を潰したあの男

 

 

日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

蘆名盛氏は、生涯側室を置かなかった珍しい戦国大名で現在からみれば愛妻家です。盛氏が側室を置かなかった理由は不明ですが、義父の伊達稙宗のお家騒動で後継者を多く持つリスクを痛感したのかも知れません。

 

しかし、戦国の世に後継者が1人だけは、明らかにリスク高すぎで、結局は盛興の急死で後継者問題が発生し、蘆名氏の衰退は現実になってしまいました。

 

伊達稙宗のような種蒔きスプリンクラーも後継者を増やし過ぎて、騒乱の元になりましたが、だからって1人息子に全てを期待するというのも…ほどほどというのは、どんな時代でも難しい事のようです。

 

参考:wikipedhia

 

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武田信玄

 

 

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