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戦国大名と子供の関係は?家督争いや肉親を殺さなければならなかった理由

18/04/2021


軍議

 

戦国時代と言えば、合戦のシーンや謀略のシーンがメインとなりがちです。しかし、戦国大名も家族にとっては夫であり、子供がいれば父という事になります。では、戦国時代の大名と子供の関係はどんなものだったのでしょうか?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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戦国大名と子供の関係

 

戦国大名と子供達の関係について、一枚の図解イラストで解説してみます。以上のように、戦国大名にとっては、長男と次男・三男までが後継ぎであり、4男以降は、分家して嫡男(ちゃくなん)の家来とするか、養子に出すか、人質にする。娘の場合には政略結婚、他国との同盟、有能な家臣と縁組して家中の結束を強化するなどがありました。

 

三国志のモブ 反乱

 

ただ、長男と言えども、戦国大名と反りが合わない事も珍しくなく、その場合には謀反が発生しますし、仮に大名が後継ぎを明確にしない間に病死したり、討ち死にすると、次男・三男までが長男と家督争いをする事になりました。

 

戦国大名 長男

織田信長

 

戦国大名の長男は、多くの場合嫡男として戦国大名の後継ぎとなるべく養育され、出来得る限りの最大の教育が与えられます。しかし、戦国大名が弱小の場合には、より力が強い大名に従属の証として人質に出されるケースもありました。

 

一番有名なケースでは、最初は織田、次は今川家に人質に出された徳川家康(とくがわいえやす)がいますし、毛利元就(もうりもとなり)の嫡男隆元(たかもと)は、若い頃、大内義隆(おおうちよしたか)の下に送られて人質として生活しています。

 

武田義信

 

しかし、戦国大名と嫡男の関係は必ずしも良好とは限らず、斎藤道三(さいとうどうさん)と嫡男の義龍(よしたつ)のように、父子で武力衝突が起きる事もありましたし、武田信玄(たけだしんげん)の嫡男、武田義信(たけだよしのぶ)のケースのように信玄の戦略が変化した結果、疎んじられ廃嫡(はいちゃく)されてしまう事もあったのです。嫡男だからと言って、人生安泰とは限らなかったのですね。

 

はじめての戦国時代

 

戦国大名 次男・三男

悪い顔をしている今川義元

 

戦国大名の次男と三男は嫡男が夭折(ようせつ)したり、能力的に家督を継げないと戦国大名に判断された場合の補完として、嫡男に次ぐ教育を施されました。もっとも無用な家督争いを回避すべく、嫡男に問題がない限りは幼少期に髪を落として寺に入れる事が一般的でした。

 

海道一の弓取りと謳われた今川義元(いまがわよしもと)も、元々は仏門に入っていたのが、兄達の急死により今川家の家督を継ぐ事になったケースです。しかし、嫡男がしっかりしていても、戦国大名が急死したり、討ち死にしたりすると、嫡男と次男、三男との間で家督争いが起こる事もあります。

 

mituhide-aketi-honouji(明智光秀の本能寺の変)

 

有名なケースでは、本能寺の変で織田信長と家督を継いでいた織田信忠(おだのぶただ)が同時になくなったために、織田家の家督を争った神戸信孝(かんべのぶたか)織田信雄(おだのぶお)の兄弟がいます。

 

酒や遊びに溺れる小早川秀秋

 

逆に、毛利元就の次男・三男である吉川元春(きっかわもとはる)小早川隆景(こばやかわたかかげ)は、有力な豪族の養子に入って、毛利本家の相続者になった嫡男の毛利隆元(もうりたかもと)を守り立てるなどプラスに作用しています。

 

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戦国大名四男以下

武田勝頼

 

戦国大名の子供でも、四男以下は嫡男の家来として位置づけられ後継者としての教育は施されませんでした。一族の結束が固かった子煩悩な毛利元就でさえ、三男より下は「むしけら以下」と記しており、家督争いがない限り、四男以下は分家するか人質として出されるか、他家の養子になるという選択しかなかったようです。

 

しかし、家督を継げる目が薄いと言う事は、命を狙われる事もないという事ですから、割り切りさえ可能なら、そんなに悪くない立場かも知れません。

 

もっとも、武田勝頼(たけだかつより)のように四男ですが、兄義信(よしのぶ)が失脚し、次男信親(のぶちか)は盲目で家督を継げず、三男信之(のぶゆき)は幼くして死亡した結果、後継者の御鉢(おはち)が回ってくるケースもあるので例外はあるのですが…

 

名古屋城

 

徳川家康の四男には、松平忠吉(まつだいらただよし)がいますが、後継者争いには絡む事なく、幼くして東条松平家を継いで徳川の親藩大名として本家を支えました。

 

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