江戸を舞台にした映画やドラマ、アニメには鼻眼鏡にオランダ語の書物を持った蘭学者が時折登場します。このような蘭学者は設定上、大体発明家で南蛮渡来の知識を駆使して主人公を救うのですが、実際、江戸後期の日本で蘭学は爆発的に普及し明治維新の原動力にもなりました。
でも、外国語が読めないと習得できない蘭学に、どうして日本人は夢中になったのでしょうか?
蘭学事始め 近代科学とは?
そもそも蘭学とは阿蘭陀の学問を縮めた呼び方です。江戸時代を通じて制限貿易をしていた日本で唯一西洋に属していた貿易相手国がオランダで、日本はオランダを窓口にして出島から西洋の文物を吸収していました。
そして蘭学とは基本的に近代科学を紹介した書物なのですが、近代科学とは何なのでしょうか?
その定義は様々あるでしょうが基本的に”世界で起こる現象を理解するため、「一定の手続きに基づいて」進める真理の探求”
このように位置付ける事が出来ます。
科学的思考そのものは古代ギリシャからありましたが、それらは一定の手続きに基づくものではなく、第三者と事実を共有する視点を欠いていました。
そのため、古代ギリシャの科学者の主張は、現代から見て当たっているものもあれば、まるで見当違いの部分もあり、とてもそのまま使えるというレベルではなかったのです。
17世紀に至り、西洋において科学的思考に加え、実験し発表して他人の批判を仰ぎ不備を修正していくという一定の手続きが導入され、第三者にも共有できる真実が誕生するに到ります。
江戸日本のインテリたちが蘭学に夢中になったのは仮説を立て実験を通して検証し、それを第三者に開示して批評してもらって自説を磨き、真理に近づくという近代科学の単純明快な手法でした。
また、江戸日本は身分制社会でしたが、蘭学では身分関係なく全ての人々が自由に考えを述べ、仮説を立て実験して検証し、第三者の批評を受けて自説を磨く事が出来、優れた発見は身分関係なく賞賛されましたから現実世界にない自由を感じた人々も多くいました。
関連記事:イギリスが7つの海を支配出来たのは「信用」のお陰だった
つくり話の罠
しかし、近代科学を誕生させた西洋もアリストテレスを絶対視した事と厳格な一神教であるキリスト教の支配により科学的思考が停滞した時期がありました。
例えば16世紀頃まで西洋で唯一絶対の真理と信じられていた天動説は、天球上の惑星が地球を中心に回っているという考えですが、この無理があるモデルの辻褄を合わせる為に、当時の天文学者は、周転円や離心円のような架空の天体の動きを作り出し、現実の惑星軌道に近づけようとしました。
天動説は、13世紀にはキリスト教会も採用した絶対真理になっていて、天動説を否定する事はキリスト教を冒涜する異端者として最悪火あぶりになる事を意味しました。ぶっちゃけて言えば、当時の天文学者は天体観測上の「矛盾」を周転円や離心円のような「つくり話」で埋めたという事です。
それ以外にも異端を認めないキリスト教世界では、天地創造やノアの大洪水も疑う事がタブーとなり、検証する必要がない「つくり話」が次々に誕生し、人々の毎日の疑問を何となーく埋めていました。
このようなつくり話を社会が容認する状態では定説を「疑う」事から始める近代科学が芽吹く事はなかったのです。
関連記事:魔女狩りはいつ始まりどうして終結したのか?社会への不満が魔女を産み出した
関連記事:3分で分かるアンティキティラ島の機械の技術力の高さ!
デカルトとガリレオ
しかし、十字軍の失敗や夥しい死者を出した宗教戦争、そして古代ギリシャ科学をイスラム文化流入を通じ「再発見」して誕生したルネサンスの流れから、千年以上も続いたキリスト教の支配も次第に弱まっていきます。
17世紀、近代科学の扉を開く2人の人物が登場します。
1人はフランスの哲学者ルネ・デカルトで彼は主観主義と二元論を発表しました。主観主義とは「我思うゆえに我あり」で知られ、自分以外の全てを徹底して疑って確かめてくるという科学的な態度です。
もう1つの二元論は人間を精神と肉体の2つに分けて、目に見えず触れる事も出来ない精神についてはひとまず置いておき、目で確かめ触れられる物質について研究してみようという事です。
これは精神世界を神の領域、つまりキリスト教会の領域とする事で物質世界と精神世界を分離し、物質世界について近代科学が大っぴらにメスを入れる事を可能にします。
もう1人はイタリアのガリレオ・ガリレイでした。
ガリレオは「偽金鑑識官」という著書の中で、それがどれほど正しい概念でも、他人に同意を強要し押し付けることを科学は拒否すべきと断言し実験や数学のように第三者と共通の概念を共有する「手続き」だけが、全体の同意を形成する唯一の手段と唱えたのです。
ガリレオは、多くの実験器具を考案し実験の手続きを明快にして、同じ条件下で同じ実験をおこなえば誰が実検しようと同じ結果が出る事のみを全ての人が合意できる真理としました。
この、物事を他人任せにするのではなく自分で考えるところからはじめ、分からない事は後回しにして出来る事から解明し、生まれた概念を客観的な手続きを通し第三者と共有する。これが正に近代科学誕生の瞬間です。
また、17世紀には、それらに加えてグーテンベルクの活版印刷術が欧州全土に普及し、科学者個人の概念が書籍を通して瞬時に欧州中の科学者と共有され、批評を通して再検証され、より磨かれていくという現代の査読に近いシステムが構築されました。
いわば欧州中の科学者がライバルになったのが17世紀の欧州であり、それが刺激になり、切磋琢磨して次々と新しい発見がなされたのも当然の成り行きです。
関連記事:地動説が天動説に勝利するまでの軌跡を解説
関連記事:ルソーの社会契約論とは?民主主義の聖典は独裁の教科書でもあった!
江戸のオンライン対戦蘭学
この近代科学の粋が江戸中期の日本に蘭学として伝来したのですから、知的好奇心に溢れた江戸のインテリたちが飛びつかないわけはなかったのです。
蘭学は、決められた手順に従い全体が納得する形で実験を繰り返し真理に近づこうとするので、実証しようがない「つくり話」が入り込む余地がありません。そして優れた発見や学説は身分に関係なく日本中の多くの蘭学者が賞賛し、その実績の上に新しい研究が積み重なっていきました。
蘭学者たちは蘭学の開かれた世界で、思う存分研究に没頭しライバルたちと切磋琢磨出来たのですから、それが面白くないわけはなかったのです。
関連記事:小栗忠順はどんな人?理念だけでなくモノを残した徳川幕府の実務官僚
関連記事:衝撃!江戸時代は1862年に終った?一会桑政権vs明治政権の戦い
日本史ライターkawausoの独り言
では逆に日本ではどうして近代科学が誕生しなかったのでしょうか?
kawausoが考えるに、原因は幕府の制限貿易による情報統制であるとか泰平による学問の硬直化だとか色々ですが、頻繁に起こる大地震や洪水、疫病のような自然の猛威が大きいのではないかと思います。
このような大災害に頻繁に遭遇すると、原因を考えるより運命と思って諦め黙々と復興に励んだ方が楽であり、対策はお上に任せるとした方が日本では合理的でした。
この、大災害や疫病が起きた時、原因を考えるより運命と思って諦め神に縋って我慢する点は「自分以外の全てを疑い自ら考える」という指向と極めて相性が悪いのは明白で、この辺りが日本で近代科学が誕生しなかった原因ではないだろうかとkawausoは愚考します。
関連記事:藩札とは?江戸時代に発行されたローカル紙幣の不思議
関連記事:江戸時代の犯罪はどう裁かれた? 今とは違う価値観を紹介