小栗忠順はどんな人?理念だけでなくモノを残した徳川幕府の実務官僚


小栗忠順 幕末

 

NHK大河ドラマ青天を衝けにも登場し武田真治(たけだしんじ)さんが熱演した小栗忠順(おぐりただまさ)。小栗は、幕末期の幕府勘定奉行、外国奉行、江戸町奉行を歴任し徳川慶喜のブレーンとして立ち遅れた幕府の軍事や経済の近代化を図り倒幕派の脅威となりました。

 

では、そんな小栗忠順はどんな人で具体的に日本に何を残したのでしょうか?

 

小栗忠順が残したモノ

忙しい方にざっくり解答03 kawausoさん

 

小栗忠順が他の幕末の偉人と異なる点は、彼が残したモノが理念ではなく目に見えるモノであった点です。

 

文久2年(1862年) 西洋式火薬工場建設
慶応元年(1865年) 横須賀製鉄所建設
慶応3年(1867年) 兵庫商社の設立
慶応3年(1867年) 本格的ホテル築地ホテル建設

 

小栗の作り出したハコモノは、ほとんど全て当時の日本に存在しないものであり、つまりは日本初でした。そして、これらは全てベラボーな値段がしましたが小栗は強力なリーダーシップで予算をもぎ取りハコモノを作り上げました。

 

小栗忠順自身は幕府に殉じましたが、彼の遺したハコモノは幕府の倒壊を越えて、日本の近代化になくてはならない遺産となります。作家司馬遼太郎は小栗忠順を「明治の父」と評価しましたが、小栗の視野は広く、日本の将来を見据えたものだったのです。

 

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天才だが疎まれた小栗

名古屋城

 

小栗は文政10年(1827年)禄高(ろくだか)2500石の旗本、小栗忠高(おぐりただたか)の子として江戸駿河台(するがだい)の屋敷に誕生しました。

 

幼い頃は頭の悪い悪童(あくどう)で周囲も敬遠していましたが、成長するに従い文武に抜きんでた才能を発揮し、同時に自分の意志は物おじせずに堂々と主張する性格になります。

 

8歳から小栗の屋敷内にあった安積艮斎(あづみごんざい)の私塾に入門し、後に盟友となる栗本鋤雲(くりもとじょうん)と知り合い、武術は剣術を島田虎之助(しまだとらのすけ)に師事した後、藤川整斎(ふじかわせいさい)の門下となり直心影流免許皆伝(じきしんかげりゅうめんきょかいでん)を許されました。

 

さらに砲術を田付主計(たつけかずえ)、柔術と山鹿流兵学を窪田清音(くぼたすがね)に師事してマスターするマルチな才能を見せます。

 

また田村塾では同門で年長者であった結城啓之助(ゆうきけいのすけ)との対話の中で開国論に進み、幕府が大船建造や大砲研究を止めたのは誤りであったとして、今後は国を開いて西洋の進んだ技術を取り入れるべしと考えるようになりました。

 

天保14年(1843年)17歳で江戸城に登城、文武の才を見込まれ若くして両番役に抜擢。率直なモノ言いを上役に嫌われ、何度も役職を変えられますが、その度に才腕を発揮して役職を戻されました。

 

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ガンバレ徳川

 

黒船来航で幕府の無力を痛感

ペリー(幕末)

 

嘉永6年(1853年)アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが浦賀に来航。

 

小栗は来航する異国船に対処する詰警備役(つめけいびやく)となりますが、戦国時代以来の貧弱な関船(せきふね)しか持たない幕府ではアメリカと対等な交渉など出来ず、押し切られる形で日米和親条約を締結するしかありませんでした。

 

この時の屈辱と海軍を持たねば独立が危ないという危機意識から小栗は外国との積極的通商を主張し造船所を造るという発想を持ったそうです。

 

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渡米で掴んだ日本の将来

黒船(ミシシッピ号)

 

父の死後、小栗家の家督を継いだ忠順は安政7年(1860年)遣米使節目付(けんべいしせつめつけ)として正使新見正興(にいみまさおき)が乗船するポーハタン号で渡米。2カ月後にサンフランシスコに到着します。

 

その後、フィラデルフィア造幣局(ぞうへいきょく)に到着した小栗は通貨の交換比率の見直し交渉に挑みました。

 

日本史 小判(お金)

 

日米和親条約の締結により、日本貨幣と西洋貨幣との交換比率が交渉されていました。しかし、この時、幕府は日本における本位貨幣である金を基準にしての交換率設定を主張したもののアメリカ総領事ハリスは当時の国際決済の標準通貨がメキシコドル銀貨であったため、銀を基準にすることを主張し幕府は押し切られていました。

 

その交換レートは1ドル=一分銀三分となり、この一分銀三分は天保小判一両と同価値とされます。

 

ところが、日本では銀と金の交換レートでは銀の価値が高く、想定的に金の価値が大幅に下落する事になりました。外国人はこの交換レートを悪用、1ドルのメキシコ銀貨を一分銀三分と交換した後、同価格の天保小判一両と両替して持ち帰ります。

 

しかし、この天保小判一両の金含有量は20ドル金貨に相当し持ち帰って溶かすだけで莫大な利益を得る事が出来たのです。こうして日本からは大量の金が海外に流出する事態になりました。

 

みずほ銀行風

 

小栗はこの不平等な交換レートを改定する為、一分銀およびそれと同じ額面を持つ一分金をフィラデルフィアの造幣局で分析させて一分銀の35.6セントに対し一分金は89セントに相当することを確認させました。

 

そして分析結果を基に、スペイン銀貨と一分銀の交換を禁止し、90セント=1分として一分金と交換するのが妥当と主張。アメリカ政府は小栗の申し出を正当と認めましたが、結局交換レートの変更には応じませんでした。

 

それでもアメリカの新聞は小栗の科学的な態度を大賞賛したそうです。その後小栗はワシントン海軍工廠(かいぐんこうしょう)を見学し、製鉄及び金属加工技術の差に驚き記念にネジを持ち帰りました。

 

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ネジこそ西洋文明の真髄である

内容に納得がいかないkawauso様

 

アメリカ訪問のお土産がネジ1本というのが面白いですが、ここには物事の本質を見抜く小栗の優秀さが表れています。というのも機械の制作において部品同士を結合させるネジ部品は欠かせないパーツだからです。

 

事実、江戸時代の日本にはネジはほとんど存在せず、部品を複雑に組み合わせた精密機械は和時計くらいしかありません。また、ネジによって部品同士を接合するという事は機械に不具合が起きた時にネジを取り外せば直せるという事でもあります。

 

産業革命では、金属製のネジが蒸気機関や紡績機械、各種工作機械に欠かせなくなり、正確に物の長さや角度を測ったり物を加工するのにねじ構造は不可欠で、ネジなしには近代化そのものが無効でした。

 

小栗は「西洋文明の原動力は精密なネジを量産する能力である」と考えてネジをお土産にしたのです。フィラデルフィア造幣局での金属分析もそうですが、小栗は問題の本質を見極め、それを解決する能力に溢れていたのです。

 

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外国奉行に抜擢されるが限界を感じ辞職

幕末_密室政治(軍議)

 

小栗は帰国後、外国奉行に抜擢(ばってき)されます。文久元年(1861年)ロシア軍艦が対馬を占領する事件が発生し、小栗はその対処に当たりますが同時に幕藩体制の限界を感じします。

 

そして、江戸に戻って老中に

 

・国境の島である対馬を幕府直轄領とすること

・今回の事件の折衝は正式の外交形式でおこなうこと

・国際世論に訴え場合によっては英国海軍の協力を得ること

 

などを提言しますが老中に入れられずに外国奉行を辞任しました。小栗は合理的な人物で非効率な仕事を拒否していて、現状ではとても自分の能力を発揮できないとして外国奉行を辞めたという事でしょう。

 

また、小栗は独特な言語センスを持つ人でもあり、石頭で古い考えに固執する役人に対し器械という言葉をもじって「製糞器(せいふんき)」と呼んで嘲っています。今風に言えばウンコ製造機ですが、相当強烈な一言です。

 

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横須賀製鉄所を建造

 

文久2年(1862年)小栗は勘定奉行に就任し、名乗りを小栗豊後守から上野介に変更、傾いた幕府財政の立て直しに奔走します。当時の幕府は海軍力強化を目指して44隻の艦船を諸外国から購入していてその総額は333万6千ドルの巨額でした。

 

小栗は軍艦を外国から購入するのは割高で同時に故障した時に自力で修理できないのでは国防に使えないと考えます。そこで小栗は蝦夷地(えぞち)開発の功績で医師から旗本に取り立てを受けた栗本鋤雲(くりもとじょうん)を通じ、フランス駐日公使ロッシュと繋がり近代製鉄所と造船ドッグについて具体的な構想を練り始めました。

 

製鉄所と造船所を建設する事で購入した軍艦を自前で修理し、造船所を併設する事で近代的軍艦を自前で建造しようと考えたのです。

 

小栗は当初、渡米した時に縁を結んだアメリカ人技師を招聘しようと考えますが、アメリカは南北戦争の最中で日本に技師を派遣する余力はありませんでした。

 

文久3年小栗は製鉄所建設案を幕府に提出、幕閣の反対を受けますが14代将軍、徳川家茂(とくがわいえもち)は承認。これを受けて実地検分が開始され、建設予定地は横須賀に決定されます。

幕末68-6_徳川家茂

 

家茂は勝海舟(かつかいしゅう)が提言した海軍士官学校である神戸海軍操練所についても、鶴の一声で許可を出していて、若いながら決断力に富んだ将軍でした。

 

小栗は製鉄所建造において大量の鉄が必要になる事を考え、上野国(こうずけのくに)甘楽郡(かんらぐん)小坂村で中小坂鉄山採掘施設の建設を計画。武田斐三郎(たけだあやさぶろう)などを現地に派遣して調査すると鉄鉱石の埋蔵量は膨大で鉄鉱石も良質である事が分かりました。

 

慶応元年(1865年)11月、横須賀製鉄所の建設が開始されました。費用は4年継続で240万ドル、費用は万延二分金などの貨幣増鋳による貨幣発行利益で賄っています。

 

横須賀製鉄所の建設には幕府内部で猛反発がありましたが、小栗は早急に工作機械をフランスに発注するなど、いまさら中止すればフランスとの関係が悪化する状態を作り出し、反対派を沈黙させて押し切ります。

 

小栗はただの真面目な堅物行政官ではなく、どうすれば反対派を沈黙させられるか、その急所をちゃんとつかんでいました。

 

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経営学や人事労務管理制度を導入

塩鉄論(書類)

 

小栗忠順は横須賀製鉄所の首長(しゅちょう)としてフランス人のレオンス・ヴェルニーを任命します。

 

外国人登用は幕府公認の事業で初の事例でしたが、この人事により職務分掌(しょくむぶんしょう)、雇用規則、残業手当、社内教育、洋式簿記、月給制と言った経営学や人事労務管理の基礎が日本に導入されました。

 

また、製鉄所の建設をきっかけに日本初のフランス語学校である横浜仏蘭西語伝習所を設立。駐日公使ロッシュの助力もあり、フランス人講師を招き本格的な授業を実施。この伝習所の卒業生からは、明治日本に貢献した人々が多く出ました。

 

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幕府陸軍の強化

幕末 大砲発射

 

勘定奉行に就任した小栗は幕府陸軍の力も増強すべく小銃、大砲、弾薬などの兵器や装備品の国産化を推進します。

 

文久2年(1862年)12月に鉄砲製造の責任者に任じられると、それまで韮山代官江川英武(にらやまだいかん・えがわひでたけ)に任されていた湯島大小砲鋳立場(ゆしまだいしょうほうちゅうりつじょう)を幕府直轄として関口製造所(せきぐちせいぞうしょ)に統合。

 

組織の合理化や当時多発していた製造不良の減少に着手し、それまで実務を取り仕切っていた江川の手代に代わり武田斐三郎や友平栄(ともひらさかえ)等の気鋭の技術者を新たに登用します。

 

さらに、ベルギーから弾薬火薬製造機械を購入し滝野川反射炉の一角に設置し日本初の西洋式火薬工場を建設しました。

 

小栗はさらなる軍事力強化を狙い、幕府陸軍をフランス軍人に指導させる事を計画。慶応2年12月8日、フランス軍事顧問団が到着し翌日からフランス式の軍事訓練が開始されました。

 

さらに時を同じくして小栗はフランスに大砲90門、シャスポー銃10000丁を含む後装小銃25000丁、陸軍将兵用の軍服27000人分など大量の兵器と装備品を発注し購入金額は72万ドルに相当します。

 

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株式会社兵庫商社の設立

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

小栗は経済面では、慶応2年(1866年)に関税率改定交渉に尽力し、特にフランスとの経済関係を緊密にし三都商人と結んで日本全国の商品流通を幕府が掌握する仕組を考えます。

 

こうして慶応3年株式会社「兵庫商社(ひょうごしょうしゃ)」の設立案を提出し、大坂の有力商人から100万両という資金貸付を受けて設立します。

 

兵士(庶民・村人)

 

それまで日本の海外貿易は資本が零細な日本商人がおこなっているケースが多く、大資本である海外の商人に安く買いたたかれた上に、営業資金を高利で外国資本から借りるなど圧倒的に日本が不利な状態でした。

 

そこで小栗は百万両という資本金をかき集めて大資本の商社をつくり、日本商人の物産を全て一括で兵庫商社で買い上げた上で外国商人に高値で販売する事を思いついたのです。

 

日本初の株式会社した坂本龍馬

 

しかし、兵庫商社が軌道にのると日本全体の輸出産業が兵庫商社の傘下に入りかねないとして、坂本龍馬や五代友厚は反発し、民間資本で兵庫商社に対抗するカンパニーを設立しようとするなど行動しています。

 

さらに小栗はロンドン覚書により、外国人の江戸立ち入りが自由になった事を受け、元々海軍伝習所があった場所の土地に洋式ホテルを建設すると発表。

 

希望者がいれば土地は無償で提供し、利益が出れば出資者が全て得てもいいという条件でホテルの建設者を募集し、清水組の2代目、清水喜助(しみずきすけ)が工事と建設を引き受けました。

 

このような小栗の手腕を倒幕派も認めざるを得ず、小栗は恐れられると同時に憎まれる事になります。

 

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主戦論を唱えるが慶喜に拒絶

大政奉還した徳川慶喜

 

慶応3年10月14日、15代将軍徳川慶喜が朝廷に政権を返上します。しかし、徳川家が400万石の領地を持ち日本に君臨している状態は変わらず薩摩の西郷隆盛は江戸で騒乱を起こして幕府を挑発し戦争に引きずり込もうと画策。

 

とうとう西郷の挑発に耐えきれなくなった幕府主戦論者が慶喜を担いで京都に向かい進撃。慶応4年1月鳥羽伏見の戦いが始まりました。

 

鳥羽伏見の戦いで薩長軍に敗北した慶喜は大坂から軍艦で江戸に戻り、1月12日から江戸城において、抗戦か恭順かで評定が開かれ大激論となります。

 

恭順派の勝海舟に対し、小栗は、榎本武揚、大鳥圭介、水野忠徳と徹底抗戦を主張。

 

薩長が箱根を下りてきた所を陸軍で迎撃し、同時に榎本率いる旧幕府艦隊を駿河湾に突入させ艦砲射撃で後続補給部隊を壊滅させ孤立化して補給の絶えた薩長軍を殲滅するという挟撃策を提案しました。

 

切腹詐欺の徳川慶喜

 

この段階で江戸には鳥羽伏見に参加しなかった幕府軍が多くいましたが慶喜は小栗等抗戦派の意見を退け、勝海舟の恭順論(きょうじゅんろん)を採用します。

 

小栗はこれにより遠ざけられ、慶応4年1月15日、江戸城芙蓉の間で老中より御役御免及び勤仕並寄合の沙汰を申し渡されると同月28日に上野国群馬郡権田村(こうずけのくにぐんまぐんごんだむら)への土着嘆願書(どちゃくたんがんしょ)を出しました。

 

全ての幕府の役職から退き隠遁する道を選んだのです。

 

旧知の三野村利左エ門(みのむらりざえもん)は小栗に千両箱を贈り、アメリカ亡命を勧めますが小栗はこれを丁重に断り、2月末には渋沢成一郎(しぶさわせいいちろう)から彰義隊(しょうぎたいたいちょう)隊長に推薦されるも「徳川慶喜に薩長と戦う意志がない以上、無名の帥であり、大義名分のない戦いはしない」と拒絶しました。

 

3月、小栗は一家揃って権田村の東善寺に移り住み、水路を整備したり塾を開くなど静かな生活を始めます。

 

慶応4年閏4月6日斬首される

 

慶応4年閏4月4日、小栗忠順は東山道軍の命令を受けた軍監豊永貫一郎(ぐんかん・とよながかんいちろう)原保太郎(はらやすたろう)に率いられた高崎藩、安中藩、吉井藩兵に東善寺(とうぜんじ)にいる所を捕縛され、4月6日取り調べもされないまま烏川の水沼河原に、家臣たちと共に引き出されて斬首されました。

 

死の直前、大勢の村人が固唾(かたず)を飲んで見守る中、豊永貫一郎に対して小栗の家臣が改めて無罪を主張すると小栗は「お静かに」と言い放ち「もうこうなった以上は未練を残すのはやめよう」と諭しました。

 

斬首役を受けた原が「何か言い残す事は無いか?」と聞くと小栗はにっこり笑い「私自身には何もないが、母と妻と息子の許婚(いいなづけ)を逃がした。どうかこれら婦女子には寛大な処置を願う」と頼んだそうです。

 

小栗には隠遁地で農民を軍事訓練し新政府軍に反抗しようとしていると報告があったそうですが、実際はそのような事実はなく薩長に憎まれ見せしめの為に処刑されたようです。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

世の中には口先ばかりが上手で実際には何の実績もない政治家が大勢います。

 

それに比較すると小栗忠順は、口先だけではなく、その時代に何が必要なのかを誰よりも早く理解し、横須賀製鉄所、築地ホテル、兵庫商社と次々と建設していきました。

 

そして、ネジ1本から西洋の強さの秘密を見抜く洞察力や造幣局で金銀の含有率をデータで提出して相手が言い逃れできなくするなど、物事の重要な急所を見抜く稀有な才能があったのです。

 

また、何よりも自分が正しいと信じ、それをやり抜く勇気があればこそ勘定奉行として幕政に関わった僅か6年間弱で、これだけの成果を挙げられたのでしょうね。

 

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幕末のエンジニア達

 

 

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カワウソ編集長

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