奇兵隊とは、幕末に長州藩で組織された非正規の軍隊です。長州藩士の高杉晋作が沿岸防備のため藩に願い出て創設しました。どうして奇兵隊というのかというと、これは正規兵に対応したもので、正規の武士がしない奇襲戦法などをする軍隊という意味です。
この奇兵隊は、ある理由で藩の正規兵を補う為に誕生しましたが、武士以外の身分の人間も加入できるようになった事で従来は武士が独占していた国防の義務が他の身分にも開放され、後の国民皆兵の前身となりました。今回は幕末に咲いた徒花、奇兵隊を解説します。
この記事の目次
攘夷戦争で役立たずだった長州正規軍
江戸時代末期、徳川幕府は西洋列強の武力に負けて開国しますが、不平等条約を押し付けられ庶民の生活は苦しくなりました。これにより、外国人を武力で追い払えという思想「攘夷」が力を持ち、国内では西洋人が攘夷派志士に襲撃されて殺害される事件が頻発します。
当時の孔明天皇は、特に外国嫌いであり公武合体で妹の和宮を14代将軍の徳川家茂に輿入れさせる時の条件であった攘夷の実行を幕府に迫りました。西洋の力を知っている幕府は右往左往しながら、1863年5月10日を攘夷決行の期限としましたが、たらたらして引き延ばすつもり満々です。
そんな中、一藩を挙げて尊王攘夷に染まっていた長州藩は「幕府がやれないなら俺達が模範を示してやろう」と、下関沿岸にある砲台から、関門海峡を通過する外国船を次々と砲撃します。馬関戦争の始まりでした。
もちろん、これで済むわけはありませんで、1カ月後の6月にアメリカとフランスの3隻の軍艦が報復のために長州に襲来します。近代兵器で武装した米仏の艦隊に長州の正規軍は歯が立たちませんでした。長州正規軍の大敗は260年の泰平で武士の軍隊が弱体化していた事を示していたのです。
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文久3年(1863年)6月7日奇兵隊結成
長州藩は、正規軍の大敗に衝撃を受け海外視察経験がある高杉晋作を呼び出して対策について下問します。すると、高杉晋作は正規軍だけではなく長州を守る気概がある人間なら、誰でも参加できる軍隊として奇兵隊の創設を提案したのです。
その中で高杉晋作は、①奇兵隊では身分を問わず力量に応じて登用する。②記録をつぶさにつけるので賞罰の裁定は身分に関係なく速やかに決する。③槍や刀、西洋銃に関係なく、それぞれが得意とする武器で戦う。等を取り決めています。
ただ、従来言われた奇兵隊は完全平等だったという説は誤りで、事実は肩章等により身分は区別されていました。
藩は高杉の提案を入れて、文久3年(1863年)6月7日、長州奇兵隊は結成、それに付随して商人が中心の朝市隊、猟師の遊撃隊。相撲取りの力士隊など民衆の軍隊が次々に結成されていきます。
奇兵隊総督には高杉晋作が就任しますが、同年には、奇兵隊士が正規軍の撰鋒隊と衝突して正規兵を斬殺した教法寺事件が勃発し、高杉は責めを負って総督を更迭されます。
当初はマチマチな装備だった奇兵隊ですが下関の豪商、白石正一郎の援助で、ゲベール銃やミニエー銃を揃えられるようになり精鋭になっていきました。
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次々と長州を襲う災難に奇兵隊も大ダメージ
しかし、奇兵隊の前途にはとてつもない困難が待ち受けていました。まず、文久3年8月18日に八・一八の政変が起こり長州勢力が京都から追放されます。
さらに、元治元年(1864年)新選組が捕えられて拷問されていた古高俊太郎を救済するために池田屋に集まっていた各地の志士が、当の新選組、会津藩、桑名藩によって突如襲撃された池田屋事件が起き、長州藩では吉田稔麿、杉山松助等11名が犠牲になります。
これにより長州藩士は暴発し、来島又兵衛を中心に1000名の兵力で長州藩の朝敵の汚名を晴らそうと京都に出陣し禁門の変が勃発しました。長州藩は御所を守る会津、桑名、薩摩の兵力に阻まれて敗戦、しかも御所に砲撃したので完全な朝敵認定を受けます。
幕府はこのチャンスを逃さず、朝敵を征伐するとして第一次長州征伐を宣言、15万の大軍で長州に進撃しました。運が悪い事に禁門の変と前後して、長州藩は下関で四国連合艦隊の17隻からなる艦隊の攻撃を受け奇兵隊は2000人弱の兵力と砲100門で対抗します。しかし、主力部隊が禁門の変に出陣していたので兵力も不足し砲も足りず惨敗しました。
禁門でも下関でも敗れた長州はこれ以上戦う能力はなく、攘夷派の勢力は後退して守旧派が台頭、高杉晋作は九州に遁走し奇兵隊も活動休止。元治元年11月11日、長州藩は幕府に屈して、攘夷派の家老3人切腹、参謀4人が処刑され幕府に恭順しました。
功山寺挙兵で高杉晋作が返り咲く
しかし、長州藩を守旧派に牛耳られた事を知った高杉晋作は、九州から舞い戻り元治元年12月15日奇兵隊や諸隊に決起を呼びかけます。功山寺挙兵です。
最初に集まったのは、伊藤博文が率いる力士隊や遊撃隊など80名に過ぎませんでしたが、晋作は構わず動き、下関の藩の政庁を攻撃して落とすと、日和見をしていた奇兵隊の諸隊が続々と集まり、3000名に膨れ上がりました。
元治元年(1865年)1月7日高杉と守旧派の戦闘が開始され、近代的な装備を持つ奇兵隊の攻撃は守旧派を圧倒し政権は転覆。長州藩は再び倒幕に方針転換したのです。
第二次長州征伐小倉口の戦いで活躍
第二次長州征伐で奇兵隊は、小倉口の戦いを担当しました。幕府側は小倉藩の小笠原長行を総督として、小倉藩、熊本藩、久留米藩、柳川藩など九州の大名2万人が小倉藩に集結します。
奇兵隊総督、高杉晋作は、戦闘前に幕府軍にいつでも長州に攻めて来いと挑発する文書を送り、長州は守りを固めるだろうと判断した幕府の隙を突き、九州に上陸して門司を占領します。さらに、高杉は幕府が渡海用に用意していた船の大半を焼き払い、幕府軍の渡海を阻止しました。
長州藩は再び九州に兵を進め、小倉藩の大里を攻略し本格的に小倉城への総攻撃を開始します。ところが、小倉城には最新式のミニエー銃やアームストロング砲を保有する肥後熊本藩がいた為に奇兵隊は大苦戦しました。
ここで戦場に奇跡が起きました、14代将軍徳川家茂が大坂城で21歳の若さで病死したのです。もはや戦争どころではないと判断した小笠原長行は大坂へ逃げるように撤退していき、最後に残った小倉藩も城に火を放ち退却しました。これにより小倉口の戦いは奇兵隊の勝利で終ります。
戊辰戦争後解散させられる
第二次長州征伐で戦果を挙げた奇兵隊は、そのまま戊辰戦争に従軍しますが、戦争が終わると持て余されます。すでに総督の高杉晋作は結核で死去していました。
維新後、山口藩は5000人の奇兵隊から2250人を選んで常備軍とし残りを解散させようとしました。しかし、その選定は能力は考慮されない身分や家柄によるもので、出自が武士でないものは容赦なくリストラされます。
これにリストラされる奇兵隊は不満を持ちました、無理もない話です。農民では食えないから奇兵隊に入り、武士か軍人になり生きて行こうと考えていたのが、いきなり無職ですからね。騙されたと感じたでしょう。
結局、解雇された奇兵隊や遊撃隊の1200人が山口藩を脱走して防府を拠点に藩政府と対立しました。脱走兵は、日増しに増えていき2000人に到達し、山口藩知事の毛利元徳に、リストラをなんとか撤回してくれと請願します。
毛利元徳は必死の説得に当たりますが、藩知事の権限ではどうする事もできず、脱走兵は藩知事の居館を包囲しました。そして、1870年の2月9日、山口藩の鎮圧部隊と脱走兵が衝突、2月11日には鎮圧部隊800名が脱走部隊を粉砕して藩知事を解放します。
この戦いで脱走兵側は戦死60名、負傷73名、首謀者として35名が処刑され、農商出身者1300人には帰郷が許され、功労者と認められた600名には扶持米1人半が支給されました。かくして、早すぎた国民軍奇兵隊は消滅してしまう事になります。
日本史ライターkawausoの独り言
明治の初期は、まだ日本の軍隊を国民皆兵にするか武士の軍隊をそのまま使うかで議論がまとまっていませんでした。西郷隆盛はやはり戦争では武士の軍隊が必要として徴兵制に消極的でした。
結局は、職業軍人の武士に支払う給与や手当を考えると、徴兵を義務にして一時的に兵役に就かせるのが安上がりというコスト問題で国民皆兵は実現しますが、奇兵隊はそれに間に合わなかった時代の徒花だったのです。
参考:Wikipedia他
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