「踊り念仏」で知られる一遍上人は、「熊野」(紀伊半島にある熊野古道や熊野三山のある地域一帯)で悟りを開いたと言われています。それは、「熊野成道」と呼ばれ、そのことにより、「熊野」にある大きな変化が起きたようなのです。
さらに、一遍の活動が、多くの芸能関係者に影響を与え、庶民の娯楽と深い結びつきがあったことが見えてきました。今回は、一遍と庶民の娯楽について注目していきます。どうぞご一読ください。
一遍上人が熊野信仰を大衆化させた?
まず、頭に入れておきたいのは、一遍が登場した頃(鎌倉時代中期)、熊野信仰は、皇族や貴族などの支配階級のためのものであったということです。「熊野」には、誰もが自由に入れるところではなかったらしいのです。しかし、鎌倉時代後期になると、一遍が「熊野成道」したという事実が、庶民に広まっていったようです。
一遍の死後、南北朝時代〜室町時代にかけて、一遍の教えを継承した「時宗」の僧侶たち(「念仏聖」と言われる)は、熊野を民衆たちが気軽に参詣できる所にするために尽力したと伝わっています。それにより、特に江戸時代に入ると、一般庶民が熊野に気軽に参詣しやすくなったと言われています。一方で、実のところは、古代まで遡ると、「熊野」という地域は、元々、庶民たちの自然信仰の場所であったとも言われています。
平安時代に入り、皇族や貴族たちの上級階級が、庶民たちの熱心な熊野信仰する姿を見て、影響を受け、熊野行幸や熊野御幸など、歴代の上皇たちが、幾度も熱心に熊野へ参詣する慣習ができたというのです。それ以降、鎌倉時代にかけては、「熊野」は庶民が簡単には立ち入りにくい地域になっていったようなのです。結果的には、「熊野」を一遍上人が 再び庶民のための参詣の場や憩いの場所として取り戻したとも言えるでしょうか。
芸能人も養成した一遍上人?
また、一遍上人の場合、「仏教」を広めるという「勧進」の目的で、各地で「踊り念仏」の活動を行っていましたし、さらに、和歌も詠むこともありました。現存する和歌は70首ほどあるようです。一遍上人の死後、一遍の弟子たちの時宗の集団は、踊り念仏を広め、それは、「盆踊り」の起源と言われるようになりました
これらのことから、一遍上人自身が芸能活動をしていたように見られることは、本や映画など、さまざまなメディアで取り上げられてきた印象です。さらに、一遍の死後、時宗の集団が、室町時代以降に「芸能」へ影響を与えていったことも、注目すべきことです。
例えば、室町幕府の足利将軍家の側近くで仕えた、「同朋衆」(あるいは「童坊」とも言われる )で、「阿弥」の名を持つ芸能者たちが登場します。特に「能」の「観阿弥」や「世阿弥」が有名です。そして、「阿弥」とは、一遍を祖とする仏教宗派の「時宗」集団の僧号と言われているのです。ただ、観阿弥や世阿弥をはじめ、阿弥の名を持つ芸能者たちが、確実に僧侶であった訳ではないようです。
しかし、彼ら芸能者たちの心底に、一遍上人の教えが入り込んでいたのではないかと推察できるのです。古来、出家せずに、在家という形で、仏教者としての道(仏道)を歩んだ者たちも多くいたようです。例えば、「沙弥」の名で呼ばれた者たちなどです。彼らも同様な立場だったと言えるかもしれません。
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阿国から歌舞伎へと継承
そして、戦国時代末期になると、旅する芸能者として、「出雲の阿国」が登場します。女性であったと伝わる「阿国」が、1588年(天正16年)頃から、京都の北野天満宮にて、男装にて、伊達男を演じ、踊りを披露したことが、「歌舞伎」の発祥だと言われています。そのとき、阿国は、「僧衣」をまとって踊りを披露したとも伝わり、それが「念仏踊り」だったという見方もあります。
ちなみに、「踊り念仏」とは、仏教儀礼として踊りとしての意味合いが強く、「念仏踊り」となると、「芸能」としての踊りの意味合いが強いというのが、従来の意味の区分けらしいですが、現在は、その区分けも曖昧になっている印象です。「念仏踊り」と聞くと、演者も観客も、皆が入り乱れて踊るという、現代の「盆踊り」に近い印象になるでしょうか。
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一遍上人が芸能や娯楽の文化価値を高めた?
そもそも、「芸能」とは、古来、「娯楽」や「余分なもの」として、人生の一時的な快楽を満たすという意味で、格下の印象があったようです。しかし、一遍上人が登場し、踊り念仏を披露して人気を集めたことで、人々の心を救済するための活動として、皆で踊ることが、社会的意義のある活動と見られるようになったのです。
それは、宗教的な意味合いが強いことにもなりますが、人生の活動の中で高い価値があるものとして、「芸能」が格上の存在になったとも考えられるのです。つまり、一遍は、踊り念仏によって、ブッダの教えである「仏教(仏道)」を、多くの「字」も知らないような人々にも分かりやすく伝えようとしたのです。
後にそれは、歌舞伎などのように庶民の娯楽にもつながります。さらに、「熊野信仰」についても、庶民たちが再び入り込みやすいようにしたのです。また、それは、一遍が在世した当時の、切迫した日本の社会情勢として、「元寇」や飢饉などが影響していると考えられます。国家危機が反動して、庶民の楽しみが増えたという、矛盾した結果にもなっているという見方ができそうです。
【了】
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【主要参考書籍】
・『熊野学事始め ヤタガラスの道』(環栄賢 著)青弓社
・『一遍上人と熊野本宮 神と仏を結ぶ』(桐村 英一郎 著)はる書房
・『一遍語録を読む』(金井清光・梅谷繁樹 共著)法蔵館文庫
・『熊野信仰の世界 〜その歴史文化〜』(豊島修 著)慶友社
・『熊野本宮大社 公式Webサイト』より
・『盆踊りの世界 WEBサイト』より
・『浄土宗 福正寺 公式WEBサイト』より