日本で1400年も続いた刑罰「島流し」。時代によってその目的と過酷さが大きく異なっていました。奈良時代の人道的な刑罰から、江戸時代の「終身刑」まで、その変遷を解説します。
この記事の目次
古墳・奈良時代は「人道的」だった島流し
島流しが日本の刑罰として始まったのは、古墳時代の5世紀頃です。最初に島流しになったのは、なんと雄略天皇の娘でした。彼女は兄との密通(近親相姦)という罪状で、近畿から四国へ流されています。奈良時代になると、唐の律令をモデルに大宝律令が整備され、島流しは罪の重さに応じて「遠流(おんる)」「中流(ちゅうる)」「近流(ごんる)」に分けられました。
- 最初の島流しは古墳時代(5世紀)に始まり、雄略天皇の娘が適用されました。
- 奈良時代の島流しは、殺人、国家反逆、窃盗などの罪に適用されました。
- 一定の年数、島で働けば釈放されて故郷に戻ることができ、比較的人道的な刑罰でした。
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平安〜江戸時代に「帰れない終身刑」へ変貌
平安時代から鎌倉時代に入ると、島流しの性格は大きく変化します。この時代、島流しは主に政争に敗れた貴族や上皇の排除目的で適用されるようになり、流された人物は政治的な影響力を削ぐために「死ぬまで帰れない」という、事実上の終身刑となりました。
- 平安・鎌倉時代には、政敵の排除手段となり、流人は帰ることが許されなくなりました。
- 戦国時代には、島流しの途中に罪人が農民に金目当てで殺される事件も発生しました。
- 江戸時代には、8代将軍徳川吉宗が島流しを「遠島」と改名し、「故郷に帰れない終身刑」と明確に定義され、絶望した罪人が脱走し命を落とすこともありました。
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【まとめ】1400年続いた刑罰の終焉
古墳時代から明治時代まで、約1400年間も続いた島流し。その時代ごとの政権や社会情勢によって、刑罰の目的や過酷さが大きく変わってきたことが分かります。非人道的な面が強まったことから、明治時代に入り、島流しは懲役刑へと変更され、その歴史に幕を閉じました。
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Q&A:よくある質問
Q. 古墳時代に最初に島流しになったのは誰ですか?
A. 雄略天皇の娘です。罪状は、兄との密通(近親相姦)でした。
Q. 江戸時代の「遠島」はどんな刑罰だったのですか?
A. 8代将軍徳川吉宗によって定められた、故郷に帰ることが許されない、事実上の終身刑でした。
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