「本能寺の変」で主君・織田信長を討ち、歴史上もっとも有名な裏切り者となった明智光秀。しかし彼は、直前まで信長に対して深い忠義を誓っていたことをご存知でしょうか?
この記事の目次
忠義の男がなぜ?謎多き裏切りの動機
明智光秀といえば、恩知らずで悪辣な戦国武将として批判されがちです。しかし実際には、本能寺の変が起きる前まで、彼は信長から絶大な信頼を受けていました。光秀自身も家訓の中で、「瓦礫のような身分から私を引き立てて大名にしてくれた信長公に、終生忠義を尽くせ」と書き残しているほどです。
- 光秀は本来、信長に対して強い恩義と忠誠心を持っていました。
- それにも関わらず裏切った動機については、パワハラによる怨恨説、信長の狂気についていけなくなった見切り説などがあります。
- また、高齢になって能力が衰え、捨てられることを恐れたという説もありますが、真相は未だに不明です。
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黒幕説に生存説(天海説)まで!?
近年では、光秀は単独犯ではなく、誰かに利用されたに過ぎないという「黒幕説」もささやかれています。信長の死後に天下人となった豊臣秀吉や、その次に天下を取った徳川家康が、影で光秀を操っていたという説ですが、もちろん確たる証拠はありません。さらに、光秀の最期についても興味深い説があります。
- 一般的には、山崎の戦いで敗れた後、落ち武者狩りの農民に竹槍で突かれて亡くなったとされています。
- しかし、実は生き延びて出家し、「天海」と名乗って徳川家康に仕え、100歳以上まで生きたという生存説も存在します。
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【まとめ】領民からは愛された「良い殿様」
裏切り者の代名詞のように語られる光秀ですが、自身の領地では善政を敷き、領民からは「良い殿様」として慕われていたとも伝わっています。忠義と裏切り、そして生存説。明智光秀という人物は、知れば知るほど謎と魅力が深まる存在ですね。
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Q&A:よくある質問
Q. 明智光秀が信長を裏切った一番の理由は何ですか?
A. パワハラによる怨恨、信長の行動への危機感、自身の保身など様々な説がありますが、決定的な証拠はなく、真相は現在も不明のままです。
Q. 光秀が生き延びて「天海」になったというのは本当ですか?
A. あくまで俗説の一つです。天海僧正は徳川家康の側近として活躍した実在の人物ですが、彼が光秀と同一人物であるという確実な証拠はありません。
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