土佐藩士から薩摩藩士に鞍替えした大石団蔵
坂本龍馬や海援隊士の分限帳は見つかっていないので、坂本龍馬が薩摩藩士であるという物的証拠は出てこないと考えられています。しかし、元は龍馬と同じ土佐藩士で土佐勤王党に属し、後に薩摩藩士になった人物は確認されています。
JR鹿児島中央駅前に立つ「若き薩摩の群像」に薩摩スチューデントの1人として最近加えられた大石団蔵、元の名前を土佐藩士、高見弥市です。彼の転籍の記録は子孫に伝えられていて確実で、もう1人の通訳、掘孝之も薩摩藩士ではなく、長崎通詞の家柄でした。
このように幕末の薩摩は、藩にこだわらず有能な人材は薩摩藩士として組み入れている事が窺え、坂本龍馬が薩摩藩士になっていても特に不思議はないのです。
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薩摩にスカウトされた事がスゴイ!
坂本龍馬が薩摩藩士だったとして、過去の一匹狼独立ベンチャー企業主イメージが覆ったとしても、それにより坂本龍馬の凄さが半減するわけではありません。そもそも、薩摩藩が龍馬を筆頭に海舟の私塾塾生の面倒を見たのは、長州と太いパイプがある龍馬の人脈を買っての事だったからです。
薩摩藩と長州藩の人材交流が密になるのは、薩長同盟で桂小五郎と小松帯刀が会見した後の事で、村田新八と川村純義が最初に長州に出向き、次には桐野利秋や篠原国幹が長州藩を訪れていきますが、それ以前の長州と薩摩のパイプは坂本龍馬しかいませんでした。
一介の脱藩浪人の龍馬が、薩摩藩から見込まれて長州藩との折衝に抜擢されるのは異例の事で、坂本龍馬の桁外れの人間力、人望の厚さが垣間見えます。
先進性では色あせてきてはいますが、人のアイデアを吸収して自分のものにしていく能力。そして出会った人間を魅了する天性のカリスマ性は坂本龍馬ならではのキャラクターと言えるでしょう。
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幕末史ライターkawausoの一言
坂本龍馬は幕末史に大きな足跡を残す事はしていませんが、その大舞台の下で一流スター達の仕事を支えていたのは紛れもない事実です。実際の社会ではむしろ龍馬のような役割の人の数が多いのであり、一連の新説でkawausoは増々坂本龍馬のファンになっています。
黄金の虚飾が剥れる中で、その地金の銀が渋く輝きだした。坂本龍馬については、最近はそのようなイメージですね。
参考:新説の日本史 (SB新書) 新書 / 2021/2/6/亀田俊和 (著)/河内春人 (著)/矢部健太郎 (著)/高尾善希 (著)/町田明広 (著)/舟橋正真 (著)
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