皆さん、江戸町奉行ってご存知ですか。昔、テレビ時代劇が華やかな頃は、大岡越前とか遠山の金さんとか町奉行が活躍する時代劇が多くありました。
でも、時代劇に登場する町奉行と史実の町奉行はかなり違うものだったんですよ。そこで、今回のほのぼの日本史は町奉行について分かりやすく解説します。
この記事の目次
町奉行は江戸三奉行の1つ。
町奉行とは、江戸時代の職業名で江戸の町方と呼ばれる都市部の行政と立法を担当する仕事で、寺社奉行、勘定奉行と併せて江戸三奉行の1つでした。時代劇では北町奉行所と南町奉行所が出てきますが、史実でも奉行所は大体南北で2つ。町奉行も基本定員は2名で北町奉行と南町奉行がいます。
南北奉行所と言っても管轄範囲は同じで、一ヶ月交替で町民からの訴訟を受理していて、非番の奉行所は先月に受理した訴訟や事務仕事を捌いていたので、別に閉まっていたわけではありませんでした。
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町奉行はどのくらい偉い?
では、町奉行ってどのくらい偉いのでしょうか?
江戸町奉行は、幕府の旗本が就く仕事としては最高のポストでした。一応、町奉行の上に大目付があり、大名や高家及び朝廷を監視して謀反を防ぐ重要な役割がありましたが、江戸中期以降は諸大名への伝令役の色彩が強くなり閑職とみなされるようになるので、やりがいのある仕事としては江戸町奉行がトップです。
最高ポストの町奉行になるには、どうしたらいいのでしょうか?
それには、まず目付という役目に就かないといけません。目付というのは、旗本や御家人や諸役人が仕事をサボっていないか監視する仕事で政務全般をチェックしていました。目付の定員は10名で役高は千石、年収7500万円くらいの高給取りです。幕府の最高権力者老中も、政策を実行する時に目付の同意が必要というスーパーエリートでした。
目付を経験すると、次に京都や大坂、長崎のような幕府の重要な領地を治める遠国奉行や、幕府の財政を担当する勘定奉行に昇進。そこで司法、民政、財政の広範な経験を積んだ人が江戸町奉行に昇進します。町奉行になると石高3000石、現在価値で2億2500万円も給料が貰えました。
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江戸町奉行と火付盗賊改方長官ではどちらが偉い?
時代劇では、町奉行が主人公になるもの以外に、鬼平犯科帳のように火付盗賊改方長官が主人公になるものがありますが、この両者はどちらが偉いのでしょう?
これは、江戸町奉行がダントツで地位が上でした。
江戸町奉行は、最高裁判事と東京都知事と警視総監と消防庁長官を兼任し、現在の内閣にあたる評定所で寺社奉行、勘定奉行と並んで幕政にも関与していました。
これに対し、火付け盗賊改方長官は、犯罪者を多少強引に検挙しても許される特別権限を持っているものの裁判権はなく、独自に決められるのは敲刑くらいでその上は老中にお伺いを立てる必要があります。
もちろん、評定所に参加して幕政に参加する事もなく、現在で言えば警察以上の武装を持つ機動隊のような特別チームの隊長くらいでした。火付け盗賊改方は、町人ばかりか武士でも検挙できる大きな権限がありましたが、武官なので捜査が荒っぽく拷問も日常茶飯事であり、江戸町人から恐れられ嫌われていました。
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過労死が出たハードな仕事内容。
このように旗本のトップである町奉行ですが滅茶苦茶忙しく、過労死する者が続出する仕事でした。
では、町奉行がどれだけ多忙かを見てみましょう。
町奉行は朝起きて身支度を済ませて8時に奉行所に出勤し、与力に仕事の指図をします。ちなみに町奉行の家は奉行所の奥にあり、就任すると家族で引っ越したので通勤時間は1分以下でした。
午前10時、江戸城に登城。芙蓉の間に詰めて江戸町民に出す町触れなどの草案を練り、中奥の老中の部屋に出向いて報告をあげたり他の役職者との公用文書の交換したりし、合間を見て弁当を食べ、午後2時には江戸城を出て奉行所に戻りました。
なーんだ、午後2時に仕事終わりか、楽な仕事だなーなんて思ってはいけません。奉行所に戻った奉行は午後2時過ぎから裁判官としての仕事が待っていました。
とはいっても、時代劇のように下手人の言い分を真剣に聞き、不真面目な悪党に対しては「じゃがぁしぃやい!」と桜吹雪を見せるような事はありません。取り調べは、与力が済ませて調書を作り、町奉行は罪状を読み上げて形式的な質問を2、3すると判決を出していました。
ただし、町奉行が独断で出せる判決は、流刑、追放、敲き、お叱り程度で死罪に相当する罪状の時は将軍に罪状を報告して判断を仰いでいます。死刑でもなんでも出せる万能の存在ではないんですね。
時代劇では、町奉行が「打首獄門」とか「切腹申し付ける」とか見栄を切って、悪党がしょんぼりするのが定番ですが、史実ではあれは法を逸脱した越権行為で町奉行が切腹ものです。
お白州は午後4時には終了、奉行所の大門は閉じます。でも、町奉行の仕事は終わりません。自分の机に戻って一日、20件~40件の訴状に目を通さないといけませんでした。その仕事は午前0時を回っても続く事がザラにあったそうです。
もちろん、こんな激務ですから遊び人に扮して町に出て情報収集というわけにはいきませんし、公用で外に出る時には駕籠に乗り御供が25人もつきますから、ひとりでぶらぶら出歩くというのも不可能でした。
また、町奉行には、月3回、現在の内閣にあたる評定所会議に出席して意見を出す義務がありましたが、これまた大名のお家騒動や直参旗本の不祥事など、町奉行、寺社奉行、勘定奉行の管轄が複雑に入り組む事件ばかりです。
さらに、江戸で火事があると町奉行は消火の責任者として指図にあたります。火事と喧嘩は江戸の華と呼ばれたほど江戸には火事が多く、町奉行は安心して眠るという事も難しく過労死する町奉行も1人や2人ではありませんでした。
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激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末」
与力や同心にこびを売る町奉行。
ところで、時代劇の町奉行は部下の人望が厚い人物として描かれます。
特にTV時代劇の大岡越前などでは、忠相を支える与力や同心が描かれたりします。
でも実際の町奉行は、老中の所轄で町奉行所の与力や同心とは直接の上下関係にありませんでした。また、町奉行は幕府の重臣なので政変に関係した異動が多く、2~5年でポストを去る人もいたので世襲で長年奉行所に勤める与力や同心の発言力が上になったのです。
特に与力の働きが町奉行としての実績に大きく影響するので町奉行は嫌われないように機嫌を取り、夏・冬には反物を贈ったり業務が多忙な時に出勤した同心に湯漬けや鮪を奢ったり、火事の現場に出る時には、与力や同心の弁当を自腹で負担し歓心を買おうとしました。
時代劇では、よく北町奉行所と南町奉行所がライバル関係のような描写がありますが、実際には同心・与力の横の繋がりは緊密で町奉行との縦関係が弱かったのです。
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先輩奉行にイジメられる。
最初に町奉行の在任期間の平均は2~5年と言いましたが、この理由は過労死だけではなく、先任町奉行のイジメがありました。江戸には北町と南町の2人の町奉行がいますが、先任でキャリアが長い町奉行の意見が尊重される決まりでした。
先任の町奉行の中には特権を使い、新任の町奉行をイジメる者がいて後任の町奉行には仕事で協力してもらえず辛い思いをする者がいたそうです。こうなると新任の町奉行も、先任奉行を早く辞めさせようと失策を取り上げて上役に報告したりして追い落とすので自然に町奉行の在任期間が短くなりました。
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町奉行の部下は125人。
町奉行には、どの程度の部下がいたのでしょうか?
百万都市江戸ですが、町奉行の直接の部下は案外に少なく、与力が25人に同心が100名南北併せても250名の部下しかいませんでした。
これだけでは、100万江戸の治安は守れないので、同心はポケットマネーで岡っ引きや目明しと呼ばれる元犯罪者を雇い、情報収集をしていました。また、文官の同心では武装した火付け盗賊は手に余るので、凶悪犯罪には、先手組と呼ばれる幕府の武官で編制された火付盗賊改方が出動し、かなり荒っぽいやり方で犯罪者を捕らえています。
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名奉行なんて本当にいたの?
ここまで時代劇との落差があると、名奉行なんて本当にいたの?と疑いたくなりますよね?
しかし、事実は小説より奇なりで人情を知り弱い庶民に寄り添う名奉行も存在しました。
遠山の金さんで知られる遠山景元がそれで、彼は貧しさ故に売春をせざるを得ない娼婦の為に、時の老中、水野越前守忠邦に意見書を出し、逮捕された場合、三年間吉原でのタダ働きとされている娼婦の刑罰を数日に縮める事を認めさせました。
遠山景元は若い頃不良で、荒んだ暮らしをしていて一日、一日をようやく生きている貧しい庶民を見ていました。そこで売春の罪で三年間もタダ働きさせられる娼婦の身の上に同情し、刑期を極限まで短くしたのです。エリートが多い町奉行ですが、遠山景元のような苦労人もいて人情を踏まえて見事な裁きを下し庶民の人気を集めていました。
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日本史ライターkawausoのまとめ。
今回は時代劇とは随分違う、町奉行について説明してみましたがいかがでしたか?
ほのぼの日本史では、歴史上の偉人の意外な一面や、有名だけどあまり知られていない事件や役職について、分かりやすく解説しています。あなたは、町奉行について、どう思いましたか?そして、知りたい歴史があればコメント欄で教えて下さい。
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