NHK大河ドラマ「光る君へ」第13話では、権中納言に昇進した道長が受領の横暴について訴えている農民に対して無関心な上役に、民の声に耳を傾けるべきと主張し、藤原実資に一目置かれるシーンがありました。受領は転んだら土をも掴むと言われ、強欲の象徴のような受領ですが、なんで受領は強欲なのでしょうか?
受領の語源
受領とは平安時代の国司で、現地に赴任した役人の中で最高責任者を指す言葉です。国司の任期は四年で、四年後に新しい国司が赴任してくると事務の引継ぎをして、最後に新しい国司から任務完了を認めた解由帳(げゆちょう)という証明書を受け取り都に帰還します。古い国司は、この解由帳か不与(ふよ)解由状を受け取って朝廷に提出しないと帰れませんでした。この解由帳を受け取る事を受領(ずりょう)と呼び、やがて国司=受領と呼びならわされるようになりました。
地方の支配者になる受領
律令体制下では、地方政治は長官である守、次官である介、三等官である判官、四等官の主典とに別れて、それぞれの仕事をこなしていました。しかし、9世紀に入ると律令制が崩れ、実際に赴任した国司の中で最上位の役人に国衙の責任が集中していきます。これが受領であり、地位は守や権守が多かったものの、介や権介のような二等官の場合も少なくありません。10世紀に入ると受領の権力はさらに集中。徴税だけでなく、国衙の全資産の管理や雑色人の任免権のような人事を握り、事実上の地方の支配者になっていきました。こうして、元々は税金を取るだけだった受領は、その強大な権限を利用して、地方の人民に恣意的に課税し私腹を肥やすようになります。
強欲な受領の誕生
平安時代後半以降、受領は任国に留守所を置いて実質的な仕事は目代(もくだい)を派遣して代行させ、自身は、必要な時にだけ任国へに行くようになります。こうして受領は普段は都にいて、朝廷の許可が必要な時に御所に赴くなど、任国と朝廷を繋ぐパイプ役になっていきます。この頃になると受領は権力にモノを言わせて、正規の税収以外にもなんやかやで理由をつけ、振興の農場主である田堵や負名から年貢を取り立てるようになり、莫大な富を築いていきます。教科書にも登場する尾張国の農場主に横暴を訴えられた受領、藤原元命や藤原実資に貪欲と評された藤原惟憲など、飽くなき収奪で田堵に恨まれた受領も多く出ています。但し、いかに受領が横暴と言っても律令の範囲内か、その抜け穴をかいくぐっての収奪であり、無制限に税を取り立てる事が出来たわけではありません。また当時の田堵や負名は、常に弱い立場だったわけではなく、時には収奪への報復として大勢で受領の屋敷に火をつけたり、殺人に及ぶなど黙って言う事を聞いていたわけでもない点にも注意が必要です。
受領になる方法は?
では、そんな憧れの受領にはどうやって成れたのでしょうか?受領になるにはいくつかのルートが存在しました。第一には、過去に受領としての経験があり、任期中の責任を全うしたという証明を得た人です。こういう人は過去の実績で再び受領に任命される権利を得ていました。もう1つは(新叙)と言い、蔵人や式部丞、民部丞、外記、史、検非違使尉等を経験して叙位が五位となった者も順番で任命される資格を持ちました。それ以外では、院宮、坊官等に勤務する人や受領たるにふさわしい額の成功、つまり献金を朝廷に行った者も任命されています。まとめると受領になるには、過去に受領をやって好成績を収めたか、五位以上の叙位があるか?上皇や法皇、天皇の妃や内親王に仕えた経歴を持っているか?または多額の献金をする財力があるかの4つのルートがあった事になります。
結構面倒な受領手続き
受領の任期は、一般に4年間でしたが、任期を延長する延任や重任によって長期間在任するケースもありました。すでに解説したように、受領の任期が終了すると新任受領との間で事務の引継ぎが行われ、前任者は後任者から仕事を完遂した事を示す解由状、または、残務が残った状態である事を示す不与解由状を交付されて都に帰還します。しかし、次の官職を得るには、解由状だけでは不十分で、原則として朝廷で公文勘済を終え、さらに受領功過定という受領をしていた間の過失と功績の査定を受けておく必要があり、普通に官職に就くよりも、ずっと面倒であった事が分かります。こういう事が面倒くさく、都に帰らず、四年間の間に在地豪族との間で出来た縁故を頼り、地方豪族化する元国司もいたようです。
摂関家や院の台頭で変質する受領
しかし、受領に到るルートは、11世紀に入り藤原摂関家に権力が集中するようになると、過去に受領だった人や五位の叙位を得た新任の人々は次第に遠ざけられていき、代わりに摂関家の周辺の人々が大量に任命されていきます。彼らは主として四、五位層の中級官人でしたが、少しでも有利な官職に就くためにたびたび朝廷に献金したり、摂関家のような権力者と結びついていきました。10世紀末からおよそ1世紀続いた摂関期には、摂関家の家司(執事)となる者も多くいて、このような人々を家司受領と言います。家司は、志と称して摂関家に莫大な献金をするほか、受領在任中に任地の荘園を寄進した上に、その経営にも当たるなど摂関家の経済基盤の重要な一翼を担っていきました。また、11世紀の後半に入り、白河法皇による院政が確立して摂関家の力が相対的に低下すると、過去に摂関家家司だった受領は、院近臣や院司受領にシフト、今度は上皇へ献金し、荘園を寄進するなどして院政の重要な財政基盤となっていきました。このように受領は、上皇や摂関家への奉仕には熱心でしたが、国家に納める官物の納入は滞り延滞するのが常でした。彼らは国家などどうでもよく、個人的な富と繁栄をもたらす上皇や摂関家の方だけを向いて仕事をしていたのです。
受領の中から伊勢平氏が台頭
このような受領の中には、院近臣や摂関家家司として中央とのパイプを維持しつつ、任地に土着して在地豪族と血縁関係を結んで大勢力を築く者もいました。その中で頼信流の河内源氏や貞盛流の伊勢平氏のように、武士団の成立と大きなかかわりを持つ者が出現し、やがて白河法皇の近臣として伊勢平氏の平正盛が台頭。保元、平治の乱を経て、正盛の孫、平清盛が源氏を追い落として唯一の武家勢力となり、後白河上皇の権勢をも凌いで、平家の全盛期を産み出します。しかし、院政期に知行国制が登場し皇族や上級貴族、寺社などに一国の支配権が与える形で任国の直接統治が開始されると受領の存在感は薄くなり、以前のような権力を失っていきました。
まとめ
元々受領は律令に則り、徴税のような決められた事務をおこなう行政官でした。しかし、9世紀に入って律令制が崩壊し、朝廷の目が地方に届かなくなると、受領の権限は強大化し、徴税だけではなく、人事や土木工事、福祉事業なども広範に担う、地方の支配者になっていきました。権力の強大化は富に直結しますし、受領は五位の叙位を得ていれば任命されるチャンスがあったので、出世の見込みがない中・下級貴族の憧れのポストとなり、受領の地位を巡り、任免権を持つ摂関家や上皇に献金したり、荘園を寄進するなど熾烈な奪い合いが発生しました。多額の献金のために、受領の収奪も激しくなり、地方の農園主である田堵や負名による訴えも多くなりますが、11世紀末に院政が確立し知行国制が敷かれて、皇族や上級貴族、寺社の直接統治が始まると、受領の存在意義は弱くなり影響力は低下していきました。
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