受領とはどんな人々?リアル悪代官が平安時代を食いつくしていた!

30/12/2021


聖徳太子

 

大和朝廷は白村江(はくそんこう)の敗戦以来、大陸の唐王朝の侵攻に備えて大陸の文物を積極的に取り入れ富国強兵を目指しました。朝廷が戸籍を造り人民の数を把握し口分田(くぶんでん)を貸し与え納税させる班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)律令制(りつりょうせい)という唐王朝に学んだシステムです。

 

国司(こくし)は地方の長官で朝廷から派遣されて行政を担当し、人民から徴収した税を中央に送る仕事をしていましたが、律令制が崩れてくると国司の徴税は滞る事になりました。ここで国司に代わり登場したのが徴税請負人(ちょうぜいうけおいにん)である受領(ずりょう)なのです。

 

律令制が崩壊し税が取れなくなる国司

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

当初は機能していた律令制ですが、9世紀に入ると機能不全に陥りました。人民に口分田を割り当てていた大和朝廷ですが、この田は天皇が人民に貸しているもので、いくら耕しても自分のモノにはなりません。

 

しかも、平等を期す為に口分田は十年おきにシャッフルされて配り直されたので、人民の勤労意欲には結びつきませんでした。そこで朝廷は、墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)を発布して自力で開いた田については個人の所有を認める方向に舵を切ります。

京都御所

 

すると、財力と人力がある貴族や大寺院は人を雇って荒れ地を耕していき、広大な私有地、荘園(しょうえん)を切り開いていきました。やがて荘園は不輸(ふゆ)不入(ふにゅう)権を得て納税を免れるようになります。

 

すると国司は取れる所から税を取ろうとしますから、小さな荘園主は次々に土地を貴族や寺院に寄進するようになり、手数料を支払って守ってもらおうとします。国司が税金を朝廷に送れなくなると、当然、朝廷の歳入も低下し戸籍の更新や口分田の再分配も出来なくなりました。

 

悪党(鎌倉)

 

国力の低下で重税にあえぐ農民が田を捨てて逃亡し、その一部は野盗になって全国各地で略奪を繰り返しても朝廷には野盗を鎮圧する軍勢を出す力がありません。こうして、律令制は荘園の発展と共に崩壊。朝廷は新しい徴税請負人を探す必要に迫られ登場してきたのが受領だったのです。

 

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受領とは?

吉田兼見

 

受領とは、国司に代わって徴税を請け負う人の事です。国司の下には、(かみ)(すけ)(じょう)(さかん)の四等官がありましたが、彼らの中で国司に代わって徴税を請け負う存在を受領と言い、大体の場合は四等官の最上位の守が請け負いました。

 

しかし、ここで疑問が出てきます。どうして国司が徴収できない税金を受領は集めてくる事が出来たのでしょうか?

 

実は受領に任命された人々の多くは地方に土着した田堵(たと)と呼ばれる人々でした。

 

田堵には、古来の郡司(ぐんじ)一族に出自を持つ豪族や、土着国司などの退官した律令官人(りつりょうかんじん)を出自とする者がいて、長年蓄積した富を投資し墾田開発や田地経営などの営田活動を進め、百姓に穀物を貸し出す私出挙(しすいこ)をし、また私兵団を保有して実力で敵を排除する力を持つなど、地方の有力者でした。

 

徴税に悩んだ国司達は、この田堵に目をつけ、まず国衙領において個人から税を取る公田を、土地から年貢を徴収する名田へとシステム変更し、田堵に名田経営を一任して受領に任命し徴税の全てを委託します。

 

こうして国司はほとんど地方に来なくなり、受領を任命して徴税を丸投げにするようになりました。

 

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大和朝廷

 

 

強欲でやりたい放題の受領

貴族趣味な今川氏真(和歌)

 

しかし、受領のお陰で年貢を徴収する(わずら)わしさから解放された国守とは正反対に庶民は強欲な受領に苦しめられる事になります。受領は国守に収める徴税さえちゃんとしていれば、後はノーチェックでしたから、ここぞとばかりに自分の富を増やそうとマージンを取り、税を中抜きし不正蓄財もやりたい放題でした。

一向一揆(農民)

 

あまりに収奪が苛烈(かれつ)で領民に訴えられた国守の記録が永延2年(988年)「尾張国解文(おわりのくにげぶみ)」として残されています。

 

このような横暴な受領に対する訴えは、特に藤原道長(ふじわらみちなが)が全盛期を迎えた10世紀に集中し、藤原氏の栄華の源泉が強欲な受領達が民衆から搾取した富であった事を裏付けています。

 

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その後の受領はどうなったの?平清盛 鎌倉幕府

 

こうして徴税請負システムを確立させた受領は、うなるような富を背景に中央へと進出していきます。受領と言っても彼らの元の身分は低く、受領の地位を剥奪されると一夜にして、ただの下級役人に転落してしまうからです。

 

自らの地位の保障と永続的任地の支配を求めた受領が接近していったのが摂関家である藤原氏、そして摂関政治の頸木を離れて院政を開始した上皇であったのは当然でした。

 

軍議(日本史)モブb

 

こうして受領として上皇の寵愛を受けて高級官僚となった一派が平清盛の出身母体であった伊勢平氏だったのです。平氏に限らず、中央に相応のポストを得た受領達は、かつての国司のように任国に赴かず、地方の部下に官位を与えて在地官人として徴税を請け負わせるようになりました。

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

やがて、中央では保元の乱、そして受領同士で上皇の寵愛(ちょうあい)を奪い合った事が遠因となった平治の乱がおき、最初は平氏がやがて源氏が挙兵していきます。この中で地方の在地官人は武士化して、武家政権へと組み込まれていくのです。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

庶民から見れば強欲な嫌われ者である受領ですが、出世が望めない下級や中級の貴族にとっては、莫大な富を獲得して出世が望める憧れの仕事だったようです。

 

彼らはせっせと有力者にコネを造って日参し、受領にしてくれるように頭を下げ人事の結果に一喜一憂していました。

 

そんな狭き門を突破して受領になった人々なので相応に優秀であり、その一部が伊勢平氏のような受領になって、ついには天下の支配者になるとは日本史とは面白いものですね。

 

参考文献:ここまで変わった!日本の歴史 24の最新説

 

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カワウソ編集長

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