鎌倉時代に起きた、一大事というと、やはり「元寇(蒙古襲来)」が真っ先に浮かぶでしょうか。踊り念仏で知られる「一遍上人」は、その元寇により、「日本」が国難に見舞われたときに生きていました。一遍の生没年は、1239年〜 1289年です。
元寇は、「文永の役(1274年」)と「弘安の役(1281年)」の二度に渡って起きたので、その二度の国難を一遍は経験した訳です。ここで、この元寇について簡単に説明します。
13世紀初頭に、モンゴル民族の「チンギス・カン」によって打ち立てられたのが「モンゴル帝国」でしたが、それがユーラシア大陸のほとんどを制しようと勢力を拡大していたのです。13世紀後半には、その食指を日本にまで伸ばしてきたという言い方が分かりやすいでしょうか。
ただ、もう少し詳しく説明しますと、その「モンゴル帝国」も、日本に侵攻してきた当時では、連合国家の体をなし、つまりは分裂しているような状況でした。日本に軍を差し向けたのは、その内、最大勢力の「元」という帝国で、皇帝は「クビライ(フビライ)」という人物でした。この元は、東アジアの「中国大陸」を勢力圏に置いたのです。
その元が、攻めこんできたので、日本では、「元寇」と呼ばれる訳ですが、その国難のとき、一遍はどのように動いていたのでしょうか?足跡を追っていくことにしました。どうぞご一読ください。
元寇が遊行を始めた切っ掛けになっていたのか?
一遍が本格的に全国行脚の遊行を始めたのは、1274年(文永11年)と伝わっています。つまり、文永の役の年なのです。ただ、一遍が所有財産を捨てて、故郷の伊予国(現在の愛媛県)を出発し、遊行の旅に出たのは、2月8日だったということです。元が侵攻してきたのは、11月ということですので、元の軍隊が九州に到達する前の時季に、一遍は遊行を始めた頃になる訳ですが、元が侵攻してくるだろうという情報は、日本全国に伝わり、一遍の耳にも確実に聴こえていたでしょう。
一遍が遊行した切っ掛けは、元寇の影響で国内が不穏な空気に覆われていたことが大きいと思えてなりません。さて、一遍の遊行の旅は、故郷の四国を出発した後、大阪の四天王寺や紀伊半島の熊野を回ったようです。その後、再度、四国へと戻り、その次の行先は、九州の太宰府だったということです。
その理由は、一遍の師匠の「聖達上人」に会うためだったようです。聖達上人は、浄土宗西山派の僧侶として知られていました。全国行脚の遊行の旅を始めたことを師匠に報告するためという目的があったようです。その聖達上人の下で、若き一遍は、12年間に渡り修行した経験がありました。つまり、一遍は長期間、太宰府に住んだ経験があったのです。ある意味、第二の故郷と言えたかもしれないのです。ですから、太宰府が、元寇により不穏な状況にある中で、一遍は太宰府に住む親しい人々を気にかけていたのは確かでしょう。一遍にとっての九州遊行は、強い動機があったと感じられるのです。
そして、その九州遊行の時期が、1276年頃で第一次元寇の文永の役(1274年)の直後でした。まだまだ消えぬ元寇への脅威があった時期でした。また侵攻してくるのではないかという不安と恐怖、そういうものに日本全体が覆われていたかと思うのです。とくに戦場にもなった九州は、それが強かったと推察します。そのため、一遍の九州遊行は、その人々の不安や恐怖を癒す目的もあったのではないかと思えてきます。
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豊後国での一遍の動き 別府温泉との強い縁?
その証拠となると考えられるのが、豊後国(現在の大分県)における一遍の足跡です。一遍が遊行により九州に渡ったとき、まず豊後国に上陸したと伝わっています。現在でも、一遍上人が上陸した浜を「上人ヶ浜」と呼び、敬意を表しています。しかも、豊後国に長く滞在していたようです。
そして、豊後国には「別府温泉」があります。当時も温泉地として知られていました。ただ、注目なのは、鎌倉時代以降、別府温泉の医療利用が積極的に見られるようになったということです。どうやら、一遍が遊行の途中に、別府温泉に立ち寄ったことが切っ掛けとなっているようなのです。一遍が「温泉療法(湯治)」を広めた可能性があるということです。考えてみれば、一遍の生まれ故郷は、道後温泉の近くであるので、自然と納得がいきやすいというものです。一遍が伝えたのは、当時、瀬戸内海西部地域で既に行われていた「石風呂」の手法ということです。つまり、石室の中で、火を焚き石を焼いて利用する熱気浴の一つで、「古式サウナ」のようなものでした。
その石風呂は、鎌倉時代初期から、怪我人の治療のために使われていたようです。その知恵を、一遍は別府温泉の地域の人々に伝えたようです。そして、元寇により、怪我人となった多くの武士たちや、その他の人々の傷病を癒したのです。さらに精神的な病にも効用があったと言われています。ちなみに、別府温泉の地域の人々は、古来、温泉に期待して、「薬師如来」に祈願していた事実があったようです。
それが、一遍の登場によって、祈願するという「信仰」だけでなく、科学的にも実証できる「医療(温泉療法)」としての健康法を伝えた第一歩になったと言えそうです。ただ、一遍を含めて、当時の人々は、科学的というより、経験により得た知恵を実践していたことになりますが、科学を重んじる現代医療に一歩近づいたと言えます。一遍は、「遊行上人」という異名がありますが、別府温泉で一般の人々や傷ついた武士たちにも温泉療法を伝えたことから、「湯行上人」とも言えるかもしれません。
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一遍の出自の河野水軍と別府との縁
ちなみに、少し詳しく調べてみると、別府温泉の「別府」という地名は、一遍の生まれ故郷の伊予国(愛媛県)にもあるのです。「別府(べふ)」と「河野別府(こうのべっぷ)」と言われる地名が、現在の愛媛県の松山市内にあります。「河野別府」は、一遍の出自の河野水軍の発祥の地に近い海浜(愛媛県今治市にも比較的近く)の地区にあります。
「別府」は松山市の中心部の近く(つまり、道後温泉にも近く)にあります。一遍の父の「河野通広」が居住していたことから、通広は、「別府通広」とも呼ばれていたようです。そもそも「別府」とは、新たに荘園として開墾するために必要とされた「別の符」、つまり、「別の許可証」の意味があるということでした。朝廷に納める租税(全てか一部)を免除されたことを証明するものでもあったのです。ここで、注目すべきことは、どちらも温泉地の近くであるということです。
その双方の温泉地ともに、大和朝廷の皇族たちが御幸された際に、立ち寄って湯治されたという話が伝わっているのです。
例えば、松山の道後温泉には、古代では「舒明天皇」と「斉明天皇」の他、「天智天皇」、「天武天皇」、「持統天皇」が立ち寄り、湯治されたと言われています。一方、別府温泉の地域にある「柴石温泉」では、平安時代の、895年に「醍醐天皇」が、1044年には「後冷泉天皇」が立ち寄り、湯治されたようです。古代以来、歴史ある二つの温泉地が、皇族たちの湯治に貢献したということですから、租税を免除されるという「別府」を受けるべき正当な理由があったということかもしれません。どちらも「別府温泉」と言えなくもないですね。
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おわりに
道後温泉と別府温泉の歴史的経緯は、武家の出身だった一遍にも伝わっていた可能性はあるでしょうか。武家ならば、ある程度以上の知識や教養を学んでいた訳です。一遍が登場する以前までも、道後温泉も別府温泉も、湯治という医療目的で利用された形跡もあったようですが、一般的に広まったのは鎌倉時代以降であるという説が有力のようです。このことから、一遍上人は、湯治を、身分の分け隔てなく、一般の人々にも、より広く利用できるように貢献したと言えそうです。その意味でも、一遍上人の功績はとても高いと感じられるのです。
【了】
【主要参考資料】
・『松山大学論集 第 23巻 第 1 号 抜 刷 2011 年 4 月 発 行 薬学史の時代区分に関する研究-―― 豊後中世における別府温泉の保健医療関係誌をもとにした考究 ――』
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