日比谷焼討事件は、日露戦争終結後のポーツマス講和条約に反対し、数万人の市民が日比谷公園に集まり、暴徒化して破壊活動を引き起こした事件です。
内務大臣官邸や国民新聞、交番、警察署が焼討され市内13カ所から火の手が上がり、死者17名、負傷者500名以上、検挙者2000名以上を出し軍隊が出動する大騒動になりました。今回は事件を引き起こした原因の1つマスコミの煽り報道を解説します。
この記事の目次
事件の背景
そもそも日露戦争は日本が大国ロシアに勝利した戦争であり暴動は起きにくいハズでした。それが暴動にまで到ったのは、日本が大国ロシアを相手に無理に無理を重ね、国内では増税に次ぐ増税を繰り返し国民生活が苦しめられたからです。
しかし、国内において日本がロシア相手に苦戦している事実は隠され日本が有利に戦っているというポジティブな情報だけが新聞等のメディアを通して大々的に報道されました。
これは、実際の戦況を知らせると国民の間に戦争への不満がまん延し、戦争継続が困難になる事を恐れた為ですが、メディアは日本軍の勝利を過剰報道し、高額の賠償金と広大な領地が手に入ると煽りに煽ったため、国民の戦勝への期待値が大きく引き上げられます。
ここで実際の講和条約の内容が発表され、賠償金が取れず領土も樺太の南半分割譲だけである事が伝わると重税に喘ぎ、新聞に煽られた国民の怒りが爆発。ポーツマス講和条約に反対し戦争継続を望む人々が日比谷公園に集結、制止する警官隊と衝突し大暴動に発展しました。
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メディアと知識人の相互浸透
日比谷焼討事件には、現在にも繋がる普遍的な構図が生まれていました。それが新聞などのメディアと知識人、専門家と呼ばれるアカデミズムの相乗効果です。
日本人は肩書に弱く、現在も○○専門家と称される大学教授のような人々が持てはやされ、マスコミの寵児になっては消費され消えていく状況がありますが、その原点は日露戦争開戦の前後に活躍した帝大七博士が最初でした。
帝大七博士とは、ロシアに対して主戦論を展開する大学教授のグループであり、そのメンバーは増減を繰り返していますが、開戦の建白書を出した、戸水寛人、中村進午、寺尾亨、高橋作衛、金井延、富井政章、小野塚喜平次の七名が有名です。
この7名でも帝国大学教授だった戸水寛人が有名であり、メディアとの関係も深く、元々反戦傾向が強かった日本の世論を大きく塗り替える事になりました。
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新聞に注目され活動を広げる戸水
ポーツマス講和会議に激しく反対し政府を攻撃した戸水博士ですが、自分から新聞メディアに売り込んだのではありません。1902年、対露強硬派の近衛篤麿を中心に組織された国民同盟会から戸水に手紙が届き、対ロシア問題について意見を求められた事が切っ掛けでした。
戸水博士は、日頃からロシアと一戦すべく輿論を喚起したいと考えていたので、近衛の手紙に喜んで応じます。この時の会合で山縣首相に六博士の連署で建議書を出す事に決まり、すぐに実行、山縣首相や加藤高明外相にも面会します。
戸水等の行動は当時としては非常に珍しいものでした。
当時の大学教授と言えば、象牙の塔に籠り仙人のように研究に没頭しているのが当たり前。若く活動的な大学教授が対露戦争というセンシティブな分野に堂々と意見するのは珍しい事であり新聞は戸水に注目し、読者も戸水の動向を紙面で追い喜ぶようになります。
以来、戸水等七博士は新聞、雑誌に度々登場するほか、勢力的に講演会をこなし自覚的に対露戦争の戦端を開くべく輿論を喚起しようと動き出しました。
また新聞も、いかにも右翼然とした国民同盟会の行動は黙殺する一方で、同じ事を主張していても戸水博士の講演については好意的に取り上げています。
大学教授という希少性がある肩書が新聞メディアにとっては魅力的に映っていたのです。大学の先生が言うのだから、間違いないという事でしょう。実際にはそんな事ありませんが…
日露戦争が勃発するが…
当初、七博士の輿論喚起にもかかわらず、盛り上がらなかった対露戦争の機運ですが、ロシア軍が義和団鎮圧後も満洲に居座り日本の抗議を無視して南下する動きを見せると、ロシアに対し危機感と反発が強まります。
これを受け日本の世論は主戦論に大きく傾き、戸水は必ずロシアと開戦すべしと主張を先鋭化させていき、新聞も次々に慎重論から転向、主戦論を煽りました。かくして1904年2月8日、日本はロシアに宣戦布告、日露戦争が勃発します。
これで、戸水寛人と七博士は目的を達成したはずでしたが、すでに新聞によって時代の寵児となった彼の活動は止まらず新聞メディアと共に暴走を開始したのです。
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素人が「権威」になる時
戸水博士の快進撃は止まりません。日露戦争開戦から4ヶ月後には満洲領有問題に触れ、満洲からロシアが撤退した後には、日本が満洲を支配すべしとの論文を発表。
開戦から1年が経過した頃には、「世界の大勢と日露戦争の結末」とする本を出版。この中で戸水博士は「ロシアはバイカル湖以東を日本に割譲せよ」と強硬論を述べて大反響を呼び世間から「バイカル博士」のあだ名がつけられています。
新聞も戸水博士の勇ましい言説を肯定的に取り上げ、国民の期待もうなぎ上りになりますが、博士の言説は実際の戦況も知らず個人的願望を垂れ流していただけでした。
しかし、一度新聞メディアが持ち上げた戸水博士の言説は実像を遥かに超えて膨れ上がり、政府閣僚でもなく、ましてや軍人でもない法学者を日露戦争の「権威」に仕立て上げます。一方、政府ではこれ以上の戦争遂行は不可能として、ロシアとの講和を模索していました。こうして戸水博士と日本政府の方向性は決定的にズレていきました。
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メディアの寵児となる戸水博士
日本政府が日露戦争の講和を模索している事が新聞メディアにも報じられると、戸水博士の言説も渋々トーンダウンしますが、それでも「講和条件は沿海州全土割譲と賠償金30億円!」というロシア政府が絶対に受け入れない強硬なものでした。
日本政府は、これ以上戸水博士に好き放題言わせては、講和の妨げになると考え、1905年8月24日、戸水博士に休職処分を命じます。
ところがこの事件は、新聞の格好のスキャンダルの種になり、弱腰の政府が勇壮な言説を吐く戸水博士の口封じを狙ったものだと面白おかしく書きたて、休職処分を受けても主張を曲げない戸水博士として逆に人気を高めてしまったのです。
今や戸水博士は、勝てる戦争に弱気になっている政府を果敢に口撃する国民の英雄になっていました。
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そして日比谷焼討事件へ
今も昔も新聞は販売部数を伸ばす事が至上命題です。そして新聞に取って戸水博士を持ち上げる事が新聞の売れ行きに直結する事になると、ほとんど全ての新聞が戸水博士の言説を持てはやすようになりました。
1905年8月30日、同士記者倶楽部なる人々が発起人となり、戸水博士の「招待会」を開催。この招待会には、萬朝報、大阪毎日、実業之日本、電報、報知、東京日々、都、時事、やまと、毎日、二六新報、読売など当時の大手新聞から合計16人が参加します。
この席上、参加者は内閣不信任決議をおこない、小村大使が帰国する時には半旗を掲げて弔意を表すべしという意見に多数が賛成しました。
9月1日、ポーツマス講和条約の内容が発表されると新聞に煽られた人々による怒りが爆発、午前中だけで総理である桂太郎邸には脅迫状が七通届き、どれも総理に腹を切れと迫る内容だったようです。
怒りの収まらない人々は、戸水博士の招待会を真似、各地で非講和集会を開いて政府を非難。その行動はエスカレートし、9月5日には日比谷焼討事件へと発展しました。
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真実の行方
この日比谷焼討事件では、内務大臣官邸や交番、警察署、市街電車が襲撃されましたが、その中には政府系の新聞だった国民新聞が、ただ一社含まれていました。国民新聞は全ての新聞で唯一講和条約を支持し国民の激しい怒りを買ったのです。
しかし、今日の視点から見れば国民新聞の論説は全く正しい事が明白であり、大手新聞の講和反対の主張こそが誤りでした。
ところが、新聞が戸水博士を権威化し国民の大半が講和反対を支持するに至っては、今さら、すべてが根拠がないデタラメでしたと白状する事は出来ません。国民の反発を恐れるが故にデマは放置されて煽られ続け、日比谷焼討事件という破壊的な最後に行きつかざるを得なかったのです。
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日本史ライターkawausoのまとめ
帝大七博士事件の後も、メディアが専門家と結託し世論をまるで違う方向に誘導してしまう現象は何度も起きました。専門家の権威がメディアの胡散臭さを消し去り、メディアは専門家を盾にする事で、あたかも第三者のように振る舞いながら世論を誘導する事が可能になったのです。
そして、インフォデミックは、その渦中にいるから気づかないだけで現在でも継続しているのかも知れないのです。
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