留守政府とは、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允など政府首脳が欧州視察に出発した後に、三条実美を頂点に西郷隆盛、井上馨、大隈重信、板垣退助、大木喬任が主力となって組織された臨時政府です。留守政府は明治4年12月から明治6年9月まで活動し多大な功績を残しました。では、留守政府が残した功績とは何でしょうか?
この記事の目次
留守政府以前
最初に留守政府が成立するまでを簡単に説明します。廃藩置県以前、日本には300前後の藩と呼ばれる独立国があり、各藩の大名が司法・行政・立法の三権を握り、藩兵として軍隊も保持していました。徳川幕府はこれらの藩を服従させていましたが、基本的に内政に干渉する事は無かったのです。
しかし、当時のヨーロッパやアメリカでは統一された独立国が当たり前になっていて、明治政府は諸外国にならい富国強兵を目指す為に藩を廃止して県を置き、諸藩の大名を東京に集め、地方には県令という役人を派遣して直接統治に踏み切りました。
日本で中央集権が機能したのは飛鳥時代から平安時代の初期までで、廃藩置県は1100年ぶりに日本の形が大きく変化する大改革だったのです。
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岩倉遣欧使節団
明治4年7月14日、廃藩置県の後始末が済まない内に岩倉遣欧使節団の計画が持ち上がりました。
岩倉遣欧使節団とは、幕末に徳川幕府が締結した不平等条約改正の下準備や明治政府樹立のあいさつ、そして西洋文明の視察を名目に計画された総員107名の大規模な海外視察団であり、条約改正も視野に入れていたので政府首脳である岩倉具視、大久保利通、木戸孝允もメンバーに含まれていました。
そのため、使節団外遊中の留守を守ると共に廃藩置県の後始末をする組織として太政大臣三条実美を筆頭に西郷隆盛、井上馨、大隈重信、板垣退助、大木喬任で留守政府が結成されたのです。
ただ、外遊中に留守政府が勝手に改革しては困るので外遊組は、岩倉使節団が帰国するまでは決められた事だけを実施し、急激な改革はしないようにという盟約書を留守政府に書かせて出発します。ただ、同時に廃藩置県の後始末については迅速におこなう事も同時に取り決めていました。
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留守政府が日本の近代化政策を推進
岩倉遣欧使節団が出発した後、留守政府は大急ぎで改革を推進していきます。明治5年2月、兵部省を解体して陸軍省、海軍省を設置。ここで帝国海軍が陸軍から独立した存在になりました。
同年5月には田畑永代売買が認められ、私有地を自由に売買する事が可能になります。これは翌年に施行される地租改正を受けての下準備でした。8月には学制を公布して、全ての国民が義務教育を受けられる仕組みが開始されます。
9月には琉球王国を琉球藩として日本政府に取り込む外交政策が採用され、同月には横浜~新橋間で鉄道が開業。横浜にはガス灯が灯ります。
10月には司法卿江藤新平が牛馬解放令と呼ばれる人身売買の禁止を発布し、官営の富岡製紙工場も開業。11月には徴兵告諭を出して国民皆兵の準備が進められ、同月には国立銀行条例が施行され各地に民間銀行が開業します。
12月には太陽暦を正式採用して太陰暦を廃止しました。明治6年1月には全国に六鎮台を設置して徴兵令が出され、7月には地租改正の条例が出て、それまでの収穫物による物納から土地の売却価格の3%を地租として金納する納税システムが始まります。
どれひとつをとっても日本を揺るがす大改革でしたが、留守政府は1年10か月という僅かな期間で、これらの近代化政策をやり遂げたのです。
もちろん、学制や徴兵令、地租改正については、地租の重税や武士の特権を奪われた士族働き手を軍隊や学校に取られる農家が激しく反発し各地で一揆が起きますが、これらは留守政府でなくても、誰が明治政府を主導しても起きる事でした。
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外遊組と揉めた理由は?
こうして改革を進めた留守政府ですが、外遊組が帰国するとすぐに対立が発生します。
従来の研究では、この対立を留守政府が盟約を破って急激な改革をした為に外遊組との不破を招いたと説明されていますが、実際は学制も徴兵令も地租改正も廃藩置県を断行すれば、当然整備されないといけない問題と外遊組も留守政府も認識していて、盟約破りが理由ではなかったと考えられています。
では、何が問題でトラブルが起きたのか?
それは外遊組が日本を留守にしている間に起きた征韓論争と人事の変更だったようです。
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征韓論での対立
最初に征韓論争について簡単に説明します。
明治政府は維新後に欧化政策を進めると同時に、李氏朝鮮との外交でも従来の仕来りを変えていきました。しかし、李氏朝鮮は日本と反対に鎖国攘夷を掲げていて、日本を西洋に寝返った裏切り者と考え外交文書の受け取りを拒否し、釜山にいた在留邦人にも迫害を加える事態になります。
これを受けて日本では、無礼な李氏朝鮮を懲罰すべしという征韓論が起きていて、留守政府でも対応を協議し、最終的に西郷隆盛が単身で武器を持たずに朝鮮に渡り開国の必要性を説くという事で話がまとまり、西郷が朝鮮に渡る事が閣議決定していました。
外遊組の岩倉具視や大久保利通は、西郷が李氏朝鮮に赴けば必ず殺害され、そうなれば軍隊を派遣するしかなくなり、清朝も朝鮮を助けて参戦して収拾がつかなくなると反対。今は国内政治の安定が最優先だとして裏工作で閣議決定を覆してしまいます。
征韓派はこの裏工作に憤慨し西郷を含め、江藤新平、後藤象二郎、板垣退助、副島種臣が辞表を出して明治政府を去る明治六年の政変に繋がりました。
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人事面での対立 山城屋事件
もうひとつの大きな問題が人事面の対立でした。留守政府が政治を見ている1年10か月の間に日本では大きな疑獄事件が2つ発生します。山城屋事件と尾去沢銅山事件です。
山城屋事件とは、元奇兵隊員で山縣有朋の部下だった政商、山城屋和助が陸軍省の公金を横領して国家予算の1%相当の穴をあけた事件です。
和助は関係書類を全て焼却した後、陸軍省応接室で割腹自殺を遂げた為に事件の真相は闇となりましたが、当時、陸軍大輔と近衛総督の地位にあった山縣の責任を追及する声が薩摩閥と司法省の江藤新平から上がり、山縣は近衛総督と陸軍大輔を辞職しました。
これは、薩長閥の政治バランスを崩す事件であり、留守政府の責任者であった西郷隆盛は山縣の辞任に反対し薩摩閥を宥めていましたが、山縣の責任追及を叫ぶ声を抑えられず辞職した山縣に代わって自ら陸軍元帥に就任。さらに政治力欠如を補う為、後藤象二郎、江藤新平、大木喬任を参議に追加します。
しかし、外遊組の目からみると西郷の行動は山縣有朋を意図的に失脚させ非長州閥の後藤象二郎、江藤新平、大木喬任を引き込んで長州の勢力を削ごうとしていると疑念を与えました。
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人事面での対立 尾去沢銅山事件
もうひとつの尾去沢事件は、大蔵卿の井上馨が南部藩の御用商人村井茂兵衛が借金のカタに南部藩から経営を引き継いでいた尾去沢銅山を難癖つけて差し押さえ、村井家を破産に追い込み、銅山を競売にかけ同郷人の岡田平蔵に払い下げた上に、従四位井上馨所有の高札を銅山に立てて私物化を図った汚職事件です。
村井茂兵衛は井上の汚いやり方に憤慨し司法省に訴訟を起こし、司法卿江藤新平がこれを問題視して井上馨の逮捕を求める事件に発展します。この時、西郷隆盛は汚職の噂が絶えない井上馨を「三井の番頭さん」と呼んで嫌い、山縣有朋の時と違い全く擁護しませんでした。
結局、長州閥の反発と征韓論争による江藤の辞職により、井上馨は逮捕される事無く大蔵大輔辞職で済んでいます。
このように留守政府の中でも汚職事件を発端とする人事の大幅な異動が生じ、外遊組が日本を出発する前に取り決めた人事を変更しないという盟約が破られる事になり、ここに征韓論争が加わって明治六年の政変へ繋がっていきます。
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明治時代ライターkawausoのまとめ
岩倉遣欧使節団に参加した岩倉具視、木戸孝允、大久保利通は留守政府に対して、廃藩置県後の後始末という難しい仕事を押し付けながら人事については勝手に変更してはいけないという無理難題を課していました。
それでも留守政府は精力的に働き、地租改正、徴兵令の発布、学制公布、国立銀行の設立など日本の近代化に欠かせない改革を次々とやり遂げます。
しかし、留守政府が活動した1年10カ月の間でも長州閥の山縣有朋と井上馨による2つの大事件が起こり、留守政府の代表であった西郷隆盛は山縣と井上のどちらも辞職させるという人事の変更を余儀なくされ、征韓論争もあいまって、明治政府は外遊組と留守政府の衝突を回避できなくなるのです。
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