穴山梅雪は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で甲斐武田氏家臣です。穴山氏はただの家臣ではなく、信友と信君の2代にわたり武田宗家と婚姻関係を結んで武田姓を許された一門衆でした。
しかし、そんな穴山信君は勝頼が没落すると宗家を見限り織田信長に付いてしまうのです。今回は元祖アナ雪、穴山梅雪のありのままの人生を解説しましょう。
この記事の目次
天文10年、穴山信友の嫡男として誕生
穴山梅雪は天文10年(1541年)穴山信友の嫡男として産まれます。梅雪とは剃髪(ていはつ)した後の号で本名は信君ですが、強引にアナ雪に引っ掛け、ありのまま、穴山梅雪で行きます。
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穴山氏は、ただの国人ではなく、武田姓を許される御一門衆(ごいちもんしゅう)に属し信友と梅雪の2代にわたり武田宗家と婚姻関係を結んで親族意識が強かったようです。しかし、梅雪の同族意識が強いとされる一方で、武田宗家から発給された家臣統制に関する文書では、あくまで穴山氏と表示されていて梅雪との温度差が浮き彫りになります。
つまり梅雪が思う程には武田宗家が穴山氏を親族扱いしない片思い関係だったのかも知れず、後年武田勝頼を見限るのも、この温度差が影響しているのかも知れません。
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永禄元年、17歳で家督相続
穴山氏は信友の時代には、下山館(しもやまやかた)を本拠地として河内(かわうち)地方を領有し、支配においては武田氏支配とは違う独自の家臣団や行政組織を持ちました。
梅雪は「高白斎記」によると天文22年(1553年)1月15日に甲府館(こうふやかた)に移っていて、これは武田宗家への人質に出されたと考えられます。5年程の人質生活を送った後、父信友の出家により永禄元年(1558年)11月に梅雪は、穴山家の家督を継ぎました。
その後の梅雪の動きについては、全てが詳細ではありませんが、甲陽軍鑑によれば、永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いでは信玄本陣を守っていたようで、厚い信頼を得ていた様子が窺えます。
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義信事件の穴山氏
第四次川中島の戦いの後、武田家中では信玄の嫡男、武田義信による謀反、義信事件が発生します。義信事件は、三国同盟を維持したい武田義信と、今川義元が死に弱体化した今川氏との同盟を破棄しようとする信玄との対立が原因と考えられます。
穴山家でも、梅雪の弟の穴山信嘉が自害した事が「甲斐国志」にあり、義信事件との関係が考えられているようです。元々穴山氏は、駿河(するが)の今川との関係が深く、梅雪の父の信友以前は、今川氏に属していた事もありました。当主梅雪が義信事件で、どちらの立ち位置にあったかは不明ですが穴山家中が二分された可能性も考えられます。
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信玄の駿河領有で功績
武田信玄は今川氏の弱体化に付け込み、嫡男の義信を殺してまで、三国同盟を破棄。交易路としての港を求め駿河・遠江(とおとうみ)へ侵攻、織田・徳川勢力と対峙します。
信玄は永禄11年(1568年)に駿河侵攻を開始、梅雪は武田侵攻に際し内通してきた今川家臣や徳川氏との取次を務め、翌年には、富士氏が籠城する大宮城に葛山氏元と攻撃を仕掛けています。首尾よく駿府を占領した武田信玄ですが、今度は北条と徳川、が今川救援のために出兵、信玄は形成不利と判断して甲斐に撤退しました。
この際、梅雪は興津横山城(おきつよこやまじょう)に籠城、万沢氏や臣従した望月氏に対し知行を与え、在地支配を試みています。
信玄は情勢の変化を捉え、駿河に再度侵攻し領国に組み込みますが、梅雪は山県昌景の後任の江尻城代となり支城領としての「江尻領」を形成した説もあります。
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長篠合戦敗北の戦犯扱いを受ける
しかし、武田信玄が没した後、穴山梅雪の行動に変化が生じます。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、武田信豊、小幡信貞と共に中央に布陣しながら、ほとんど動かなかったのです。
長篠合戦では、多くの武田重臣が奮戦し戦死していますが、梅雪とその配下の穴山衆については戦闘の様子を記した記録がなく、穴山衆の多くも無事に帰還しました。甲陽軍鑑などでは、梅雪は長篠合戦で積極攻勢に出なかったと記され、梅雪が合戦そのものに反対したという記録も見られるようです。
信濃北部の海津城(かいづ)に駐屯していた高坂昌信(春日虎綱)は長篠敗戦を知ると、武田勝頼に対し五カ条の献策をしますが、第五条で武田信豊と穴山梅雪の切腹を進言しています。
ここから、穴山梅雪が長篠で奮戦した武田重臣の恨みを受け、敗北の元凶と見られていた様子が窺えますが、勝頼は北条氏との同盟以外、高坂昌信の献策を退けました。
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ありのままに織田家に寝返る
長篠合戦敗北後、勝頼は信玄時代の重臣を疎んじるようになり、長坂長閑(ながさかちょうかん)、跡部勝資等の取り巻きを重用するようになります。穴山梅雪は一門衆である自分が、勝頼に遠ざけられた事を憎み、織田信長に内通を開始。天正10年2月には、武田勝頼が娘を梅雪の嫡男に娶らせる約束を破り、武田信豊の子に娶らせた事で完全に愛想が尽きます。
降り始めた雪は、足跡を消して
裏切りの乱世に 孤独な拙者
織田が書状でささやくの
このままじゃダメだと
諫言、屈辱
主君に言い出せずに
悩んでた
それも、もうやめよう!
ありのままの
心見せるぞよ
ありのままの
拙者になるの
何も怖くない 赤備え?
少しも恐れないわ!
こうして、穴山梅雪は武田宗家を裏切る決意をしました。
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信長に寝返り徳川家康の与力に
天正10年2月、織田信忠が甲斐に攻め込むと、梅雪は甲府にいた人質を逃亡させ、甲斐一国の恩賞と武田の名跡継承を条件に徳川家康の誘いに乗って信長に内応します。こうして武田滅亡後、梅雪は織田政権より甲斐河内領内と駿河江尻領を安堵された織田氏の従属国衆となり、徳川家康の与力となりました。
天正10年5月、梅雪は所領安堵(しょりょうあんど)の御礼を信長に伝える為、徳川家康と共に上洛。近江国安土で信長に謁見しました。
ありのままに勝頼を見限り、乗り換えに成功した梅雪は、そのまま家康に付いて堺見物に出かけますが、そこで日本史上の大事件に遭遇します。
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一揆勢に家康に間違われ殺害
天正10年6月2日、堺を遊覧した梅雪は京都に向かう途中で明智光秀の謀反と信長の死を知り、顔面蒼白になります。まさか勝頼とそんなに違わないタイミングで、乗り換えたばかりの信長が討たれるとは夢にも考えはしなかったでしょう。
しかし、ここでじっとしていても、明智軍の追討を受ける恐れもあるので、梅雪は決心し家康と共に伊賀越えを決行して落ち延びようと考えますが、宇治田原(うじたわら)で農民一揆の襲撃を受け自害したとも殺害されたとも伝わります。一方で上司の家康は、かろうじて一揆勢の襲撃をかいくぐりました。
フロイス日本史によると、梅雪は家康一行に遅れたところを、落ち武者狩りの執拗な襲撃に遭い殺害されたとされ、東照宮御実紀では梅雪が家康を疑い、別行動を取ったところを光秀からの家康追討の命令を受けた一揆勢に殺されたとあります。
日本史ライターkawausoの独り言
穴山梅雪は、武田信玄が健在の頃は、特に叛く様子もありませんが、勝頼が当主となると長篠合戦に非協力的になり、敗戦の戦犯のような扱いをされ、勝頼に縁組を拒否された事で織田家への寝返りを決意しました。
その寝返りの背後にあるのは、国人衆としての躍進への野心か?
親子2代に渡る武田宗家への忠誠を勝頼に足蹴にされた事への恨みか?今となっては分かりません。
参考:wikipedhia
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