平安時代

河内源氏が東国武士の棟梁になった切っ掛けは?

軍旗

 

源平合戦(げんぺいかっせん)として知られる治承(じしょう)寿永(じゅえい)の乱。この戦いにおいて源頼朝(ふみなもとのよりとも)は主に東国の武士を率い、西国の武士を率いる平家(へいけ)と戦い、遂には1185年、壇ノ浦に平家一門を滅ぼし鎌倉に幕府を開くに至りました。

 

しかし、どうして源頼朝は東国の武士を率いる事が出来たのでしょうか?

 

河内源氏が東国武士の棟梁になったのはズバリ!

忙しい方にざっくり解答01 kawausoさん

 

では、最初に河内源氏(かわちげんじ)が東国武士の棟梁になった理由を簡潔にズバリと解説します。

 

1 清和源氏(せいわげんじ)源満仲(みなもとのみつなか)が畿内摂津国に拠点を置く
2 源頼信(みなもとのよりのぶ)が河内国壷井に拠点を置き河内源氏と呼ばれる
3 源頼信が平忠常(たいらのただつね)の乱を鎮圧。美濃守になり東国とパイプを持つ
4 前九年(ぜんくねん)(えき)源頼義(みなもとのよりよし)が清原氏を従え陸奥国豪族安倍氏(あべし)を滅ぼす
5 後三年(ごさんねん)(えき)源義家(みなもとのよしいえ)が陸奥の利権を狙い安倍氏の内紛に介入
6 朝廷は後三年の役を義家の私闘として恩賞を与えず
義家の官職陸奥守を解任。河内源氏は奥州から遠ざかる。
義家は自分に従い後三年の役に従軍した東国武士に
ポケットマネーで恩賞を払い、東国武士の尊敬を集める。
7 義家の孫、源義朝が幼少期から関東に下向、
関東武士を取りまとめ棟梁となる

 

以上が河内源氏が東国武士の棟梁になったザックリした理由です。

ここからは、より詳しく内容を解説していきます。

 

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最初は河内を拠点にした源氏

戦国時代の武家屋敷b

 

源氏の中心勢力になった清和源氏は、清和天皇の子の貞純親王(さだずみしんのう)の子が臣籍降下し源基経(みなもとのつねもと)と名乗った所から始まります。

 

この基経の家督を継いだ源満仲は藤原摂関家(ふじわらせっかんけ)に仕えて各地の受領を歴任し畿内の摂津国川辺郡多田を本拠地として源氏武士団を形成しました。元々、源氏の根拠地は京都に近い摂津国だったのです。

 

源満仲の三男、源頼信は河内国壷井を本拠地にした事から河内源氏と呼ばれる武士団を形成。この河内源氏が次第に東国に勢力を伸ばす事になりました。

 

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平忠常の乱を平定し東国に拠点を移す

三国志のモブ 反乱

 

長元元年(1028年)上総、下総、安房に勢力を伸ばした平忠常が安房守平維忠を焼き殺し、次に上総国の国衙を占領する事件が起きました。

 

上総介縣犬養為政(あがたいぬかいのためまさ)の妻子は京に逃れ、これを見た上総国の国人は忠常に加担し反乱は房総三ヵ国にまたがる大乱、平忠常(たいらのただつね)の乱に発展します。

 

公家同士の会議

 

平将門の乱以来の大乱に朝廷は驚き、追討軍を出しますが追討を命じられた中原成道は征討に消極的で、積極派の平直方と折り合いがつかず作戦は失敗を重ねました。朝廷は何度も増援を送りますが、平忠常の乱は長期化し房総三ヵ国では、平忠常軍、そして朝廷軍の乱暴狼藉が続いて田畑が荒廃、大飢饉が発生しています。

 

業を煮やした朝廷は、中原成道も平直方も罷免、過去に平忠常を家人にしていた源頼信に忠常追討を命じました。この頃、平忠常も長年の戦乱に疲れ果て病気になっており、頼信と一戦交える前に病死。頼信は病死した忠常の首を刎ねて京都に送り込み、3年も続いた反乱は呆気なく終結します。

 

朝廷は、頼信の功績を高く評価しどこでも望みの受領にしてやると約束。頼信は当初、京都に近い丹波守への就任を願いますが、その後、東国への交通の便がよい美濃守へと希望を変更します。

 

美濃

 

突然の受領の変更は、平忠常の反乱を鎮圧する過程で、東国の平氏武士団が頼信に従うようになり、東国に拠点を持つ方が有利だと頼信が判断したからでした。こうして河内源氏は、東国武士に大きな影響力を持つようになります。

 

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前九年の役

蒙古兵に先駆けをする竹崎季長

 

永承6年(1051年)陸奥国の奥六郡で半独立勢力を築いていた豪族安倍氏が、対立していた大和朝廷の派遣した国司、陸奥守と戦い鬼切部で国司を破って反乱を起こしました。この戦いを前九年の役と言います。

 

朝廷は源氏の棟梁で、源頼信の子、源頼義を討伐軍として多賀城に派遣。安倍氏は当初、頼義に降伏しますが再び反逆しました。天喜(てんぎ)五年(1057年)源頼義・源義家父子は、黄海(きのみ)の戦いで安倍氏と激突しますが大敗、頼義は義家を含めて、僅か7騎で落ち延びます。

 

馬にのり凱旋する将軍モブ(兵士)

 

そこで頼義は豪族清原氏を味方に引き込み、共同して安倍氏と戦い、次々と安倍氏の拠点を落として康平(こうへい)五年(1062年)廚川の戦い(くりやがわ)で安倍氏を滅ぼしました。

 

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源義家、後三年の役に介入

蒙古兵を弓矢で追い払う鎌倉武士

 

こうして陸奥の支配者になった清原氏ですが、やがて清原家衡(きよはらのいえひら)藤原清衡(ふじわらのきよひら)という名前が似ていて、非常にややこしい2人が家督相続を巡り抗争を起こします。

 

永保(えいほう)3年(1083年)陸奥守に就任した源義家は、藤原清衡に味方し家督争いに介入しました。これを後三年の役と言います。

 

この紛争介入は義家の独断であり朝廷は征討命令を出していません。恩賞が出ない内紛に義家が武力介入したのは、当時の東北では砂金に名馬に昆布、矢羽の材料になる鷲の羽、熊の毛皮を交易で入手できた為でした。

 

戦いは義家の加勢により清衡が逆転勝利し、陸奥は藤原氏と河内源氏で共同統治されるハズでしたが、義家のスタンドプレーが思わぬ事態を招きます。

 

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源義家陸奥守をクビになり税金督促を受ける

京都御所

 

朝廷は、命令なく後三年の役に介入した義家の戦いを私戦と断定し恩賞を与えず、同時に命令違反を理由に陸奥守だった義家をクビにします。ばかりか、義家が戦争の費用に回して納めなかった陸奥国の年貢を支払うように命じ、その後、何年間も義家は年貢未納の督促を受け続ける事になりました。

 

戦費負担で貧乏になる鎌倉武士

 

こうして、義家は東北から引き離されて京都に戻り、奥州は藤原清衡の独裁する土地になり、奥州平泉の100年の栄華が花開く事になります。

 

一方で、義家に従って後三年の役に参加した関東武士は生活に苦しむ事になりますが、義家は男気のある人で、自腹で従軍した武士に恩賞を支払い、関東武士は義家を棟梁として崇めるようになりました。

 

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源義朝が東国に下向し鎌倉に拠点を築く

源義経 鎌倉時代

 

ここからしばらく、河内源氏はゴタゴタが続き弱体化しますが、源頼朝の父である義朝(みなもとのよしとも)が幼少期から関東に下向して、在地豪族を従えていき源頼信以来の河内源氏の東国支配は確実なものになっていきます。

 

源義朝は高祖父の源頼義以来、ゆかりがある鎌倉の亀ヶ谷に居館を構えて、主に相模一帯に大きな勢力を張る事になりますが、この地に拠点がある事で息子の源頼朝が平家追討の軍を起こす事が可能になったのです。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

以上、河内源氏が東国武士の棟梁になった経緯について解説しました。元々は畿内の武士だった源頼信が平忠常の乱平定で、関東平氏を従え、東国の流通を握る為に美濃守になり、さらに源頼義・義家の時代に、前九年の役、後三年の役を経て東北の富に目をつけます。

 

ところが、命令違反で義家が陸奥守を追われピンチになるも、ポケットマネーで従った関東武士に恩賞を払った事で逆に人気が高まり、子孫の義朝の時代に東国武士は河内源氏の傘下に入る。

 

歴史は、このように変転を繰り返し意図しない結果を産み出すので面白いですね。

 

参考文献:経済・戦争・宗教から見る 教養の日本史 西東社

 

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