NHK大河ドラマ麒麟がくるに登場し、大河史上、最も美しき帝と言われる正親町天皇。
蘭奢待切り取り事件では、信長から献上された蘭奢待をそのまま、織田と敵対している毛利輝元に贈るよう命じるなど、まさか本能寺の変の黒幕じゃないか?と匂わせる行動もしています。
天皇譲位を巡って信長と対立していたともされる正親町天皇は、本当はどんな人なんでしょうか?
正親町天皇についてズバリ!
では、いつものように、忙しいのに2000文字も読んでいられないという読者向けに正親町天皇について、ズバリ解説します。
1 | 1517年後奈良天皇の第一皇子として生まれる |
2 | 1557年後奈良天皇の崩御に伴い即位 |
3 | 皇室は戦乱で困窮しており即位の費用は毛利元就の献金で賄う |
4 | 本願寺顕如も献金しており、天皇は門跡の称号を与えた。 以後、本願寺は勢力を拡大する |
5 | 1568年上洛した織田信長に財政支援を受け、信長の求めに応じ 浅井・朝倉、足利義昭、石山本願寺と織田との講和を斡旋。 |
6 | 1573年、高齢となり譲位を望むが資金がない信長は譲位を延期。 一方、信長が天皇と不仲になり譲位を迫るが天皇がこれを拒否したとも このトラブルにより本能寺の変の黒幕と囁かれる |
7 | 1577年織田信長に右大臣を宣下する |
8 | 本能寺の変後、引き続き羽柴秀吉の援助を受け関係も良好。 秀吉の関白太政大臣就任も認めた。 |
9 | 1586年、69歳にしてようやく和仁親王に譲位し隠退。 |
以上が正親町天皇についての簡単な説明です。以後は、もう少し細かく正親町天皇について解説しましょう。
お金がない朝廷
正親町天皇は、諱を方仁と言い、永正14年(1517年)5月29日に後奈良天皇の第1皇子として産まれます。そして、弘治3年(1557年)満40歳で父、御奈良天皇の崩御に伴い106代天皇として即位しました。どうして、40歳という当時としては壮年になるまで天皇になれなかったかと言えば、当時の皇室は戦乱で税収が入らず困窮していた為です。
平安末からの慣例では、天皇は皇子が生まれて幼少の頃に譲位して上皇となるものでしたが、貧しいが故にその費用を工面できず、やむなく天皇は譲位せず終身天皇で通し、崩御してから皇太子が即位する形になっていたのです。正親町天皇が40歳という当時としては壮年で即位したのも、そのような事情からでした。
織田信長の援助を受け状況が好転
そんな事情で正親町天皇が即位しても、お金がない事には変化が無く、天皇は戦国期の天皇がそうだったように、各地の大名から献金を受けて、見返りに官途を与えるなどして、毎日をしのぐという状態でした。
毛利元就や、本願寺顕如、信長の父の織田信秀なども、皇室に献金して様々な見返りを受けています。皇室の財政状態が好転したのは、永禄11年(1568年)尾張と美濃を領有する戦国大名、織田信長が将軍候補足利義昭を奉じて、上洛してきた時です。
信長は、皇室へ多額の献金をすると同時に、様々な財政政策を取り、皇室の懐が潤うように取り計らいつつ、同時に天皇の権威を自己の天下静謐に利用する事も忘れませんでした。四方に敵を抱えた信長は、天皇の勅命による和睦を有効なカードとし、浅井・朝倉、足利義昭、石山本願寺と和睦を結んで態勢を立て直し、また戦うなど天皇の威光を最大限に利用します。
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譲位を巡り信長と対立?
しかし、正親町天皇と信長の間に一騒動が持ち上がります。天正元年(1573年)12月、正親町天皇が誠仁皇太子に譲位して上皇になりたいという希望を漏らしたのです。当時、正親町天皇は50歳を越えており、次第に病気がちになっていました。
天皇は、ただ宮中で鎮座しているわけではなく、祭祀王として様々な宮中の行事をこなす必要があり、さらに政治にも関与しないといけないので、それがしんどくなってしまい、成人に達した誠仁皇太子に譲位して、より行動の制約が少ない上皇として余生を送りたいと考えたようです。
ところが、信長は、その事について快諾しながら、なかなか実行に移しませんでした。理由は譲位に関連する莫大な費用の捻出と、正親町天皇が隠居する場所の造営に出せるお金がないという事でした。
そうでなくても、正親町天皇の譲位が実現すれば、御花園天皇以来、110年ぶり以上の事であり、しょぼい儀式で終わらせたりすれば、「なんや、織田信長言うても、大したことあらへんな」と京都の人々にバカにされる恐れがありました。
信長は、非常に体面を気にする人であり、盛大な儀式でないと挙行するのはリスクが大きいと考え、正親町天皇に色よい返事をしなかったというわけです。
結局、信長は本能寺で倒れ、その後も信長の後継者戦争で天皇の譲位は後回しにされ、ようやく譲位が実現したのは譲位を漏らしてより13年後、天正14年(1586年)でした。
信長が譲位を迫った説
逆に信長が、天正元年頃から、正親町天皇を嫌い譲位を迫ったという話もあります。それによると、信長は確執がある正親町天皇を譲位させて遠ざけ、若くコントロールしやすい誠仁親王を天皇にしようとして、天皇と揉めたとされます。
正親町天皇は信長の圧力に脅かされ、自分を守る為に明智光秀を陰から動かして本能寺の変の黒幕に…みたいな筋書きです。しかし、誠仁親王は当時で22歳、意のままに操れるような年齢でもありませんし、そもそも、正親町天皇は信長に下した勅書で譲位できる事を喜んでいます。
そもそも隠居して上皇になっても、政治権力が全く損なわれるわけではなく、天皇を通して影響力は残るので、信長が正親町天皇に譲位を迫る必要性が薄い感じがしますね。
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本能寺の変後は豊臣秀吉と繋がる
本能寺の変で織田信長が譲位の約束を果たす事なく横死すると、明智光秀を討って信長の後継者になった羽柴秀吉が正親町天皇に接近します。
天皇は、秀吉とも良好な関係を作り上げ、引き続き資金面の援助を受け続けます。正親町天皇は秀吉の関白太政大臣就任も許し、天正14年には念願だった譲位を果たし、誠仁親王の子、和仁親王が後陽成天皇として即位しました。
太上天皇となった正親町帝は、文禄2年(1593年)77歳で崩御しています。
戦国時代ライターkawausoの独り言
正親町天皇は、織田、豊臣の権力者とつかず離れずの距離を保ちつつ、皇室の権威を回復させた人物として、近年は高く評価されています。
40歳という壮年で即位した事が人生経験に裏打ちされた高い見識を育て、さらに37年にも及ぶ天皇、上皇としての政治キャリアが海千山千の天下人相手でも、一歩も引けを取らない高い政治力に直結したのでしょうね。
参考文献:Wikipedia他
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