腹が減っては戦が出来ぬというように、いつの時代も食事と戦いというのは密接に結びついています。そんな合戦が100年以上も続いた戦国時代には、武将は庶民はどんな食事をしていたのでしょうか?
戦国時代は基本一日二食
日本人が一日三食を取るようになったのは江戸時代の事で、それ以前の戦国時代には、朝と昼の二食が普通でした。これは上は天皇、将軍から庶民に到るまで同じでした。ただし、城や砦を夜間に警護する兵士には夜の20時から21時前後に食事の支給があったようです。
たった2食で一日持つんだろうかと思ってしまいますが、ここにはちゃんとカラクリがありました。つまり一度の食事量が多かったのです。戦国武将には一日五合の米を食べる人までいたようで、これは炊飯すると1.75㎏にもなりますからかなりの大食いです。
当時は一汁一菜であり米を大量に食べていました。お米の調理法には姫飯と強飯があり、姫飯は今と同じでご飯を炊いたもの、強飯とは蒸籠を使って蒸したご飯でした。
戦国時代の主食は玄米
戦国時代の主食は白米ではなく玄米でした。玄米は稲穂から籾殻を除去しただけなので米の一粒一粒が薄い褐色になっています。玄米は白米よりも歯ごたえがあり、正直白米ほどは、美味しくはないのですが、ビタミン、ミネラル、食物繊維を豊富に含んでいる健康食でした。当時は、玄米だけではなく、ヒエ、アワ、キビなどの雑穀類やイモ類を混ぜて出していたようです。
戦国時代は流通が未発達で保存技術も発達してなく、常に肉や魚、鳥のようなたんぱく質や脂質が取れるわけではないので、穀類から必要な栄養素を取ろうと雑穀米になっていたのです。
腹持ちよく栄養豊富な味噌汁
戦国時代の食事にも味噌は欠かせませんでした。大豆を発酵させてつくる味噌は塩分が含まれ、肉体労働をする武士には欠かせないだけでなく保存性が高くて腐りにくく、大豆に由来するたんぱく質やビタミンが含まれていました。
戦国武将は味噌の貯蔵に注意を払い、伊達政宗は軍用の味噌工場を建設し、武田信玄も軍用の味噌を製造し長野県名産信州味噌のルーツとも言われています。もう一つ、味噌汁は中に根菜や葉野菜を入れる事で腹持ちを良くする事も出来て経済的でした。戦国時代は、食事の最期にオカズの残りをご飯に乗せ、その上から味噌汁を掛けて食べるねこまんまも一般的だったようです。
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合戦時の食事
合戦時の食事は普段の一汁一菜とは大きく異なり、大量の白米や味噌のような高たんぱくなオカズを振る舞ったそうです。越後の龍、上杉謙信は普段は一汁一菜の質素な食事でしたが合戦が近づくと飯を大量に炊かせて、酒や山海の珍味を並べて部下に大盤振る舞いしました。謙信の部下は、これを見て合戦の近い事を知り、御馳走に舌鼓を打ちつつ気を引き締めました。
下級武士の中には、出陣前の大盤振る舞いを息子にも味あわせてやろうと子連れで参加する者までいたようで、死ぬかも知れない緊張感の中で戦国大名が部下に精一杯の持て成しをしている様子が窺えます。
戦場での食事
合戦前に大飯を振る舞われると、武士たちは、鎧兜を身に着け出陣準備を始めますが、それと同時に陣中食として握り飯や乾飯を用意しました。乾飯とは米を炊いた後で乾燥させたもので水を加えてもどして食べたり、炒めたり茹でたりしています。
また、兵糧丸といい米や蕎麦粉、豆類や魚粉を混ぜて丸めた携帯食を腹に巻いたり腰に下げていました。調味料としては、味噌玉や芋茎縄もあります。味噌玉は焼いた味噌を一食分ずつ丸めたもので、ただのお湯でも味噌玉をいれれば味噌汁に早変わりします。
芋茎縄は、ズイキというサトイモの茎を味噌汁で煮しめて乾燥させて縄状にしたものです。普段は荷物を縛るのに使える以外にも、そのままかじって食べられ、味噌汁に放り込めば味噌汁の具にもなりました。それ以外も持てれば梅干、乾燥させた餅、干物など兵士は食べられそうな色々な物を揃えています。一度戦場に出れば勝ち戦でない限り、食事は不安定になる事が多く食糧を確保する事は切実でした。
戦国時代の庶民の食事は?
農民の食事は米ではなく粟や稗のような雑穀で副菜として大根やイモなどの野菜も食べています。少しでも腹持ちを良くする為に雑炊にして食べる事が多かったようです。魚や鳥獣の肉は保存の関係で出回らず、自分で獲るか、市場で買うかしたと考えられますが当時は仏教の影響で鳥や魚以外の獣肉は余り食べられていませんでした。米や味噌は贅沢品で、日頃から食べていたのは武将や貴族など身分が高い人たちだけでした。
1996年のNHK大河ドラマ「秀吉」では、若い頃の羽柴秀長が、もらった手間賃で贅沢品だった木綿豆腐を買ってくるシーンがありましたが豆腐が贅沢品扱いなのを見ると、いかに当時の農民の食生活が質素だったか分かります。豆腐が安くなり庶民の日常の食品になるのは、江戸時代からでした。
戦国時代ライターkawausoの独り言
当時は、体を動かす事が少ない京都の貴族は薄味の食事を好み、労働や武芸で肉体を酷使する武士や農民は塩の効いた濃い味の食事を好んだようです。
特に、織田信長は味噌を効かせた濃い味の味付けを好み、少しでも味が薄いとマズいと怒り不機嫌になったとか、、足利義昭を奉じて上洛した信長は薄味を好む京風の食事には辟易したかも知れませんね。
文:kawauso
参考文献:絵解き雑兵足軽達の戦い 講談社文庫
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