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戦国時代の食事生活とは?兵士たちは何を食べていた?

27/05/2020


hideyosi-toyotomi(宴をする豊臣秀吉)

 

腹が減っては戦が出来ぬというように、いつの時代も食事と戦いというのは密接に結びついています。そんな合戦が100年以上も続いた戦国時代には、武将は庶民はどんな食事をしていたのでしょうか?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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戦国時代は基本一日二食

軍旗

 

日本人が一日三食を取るようになったのは江戸時代の事で、それ以前の戦国時代には、朝と昼の二食が普通でした。これは上は天皇、将軍から庶民に到るまで同じでした。ただし、城や砦を夜間に警護する兵士には夜の20時から21時前後に食事の支給があったようです。

 

たった2食で一日持つんだろうかと思ってしまいますが、ここにはちゃんとカラクリがありました。つまり一度の食事量が多かったのです。戦国武将には一日五合の米を食べる人までいたようで、これは炊飯すると1.75㎏にもなりますからかなりの大食いです。

 

当時は一汁一菜(いちじゅういっさい)であり米を大量に食べていました。お米の調理法には姫飯(ひめいい)強飯(こわいい)があり、姫飯は今と同じでご飯を炊いたもの、強飯とは蒸籠(せいろ)を使って蒸したご飯でした。

 

戦国時代の主食は玄米

Military-resources(兵糧を運ぶ兵士)

 

戦国時代の主食は白米ではなく玄米(げんまい)でした。玄米は稲穂から籾殻(もみがら)を除去しただけなので米の一粒一粒が薄い褐色になっています。玄米は白米よりも歯ごたえがあり、正直白米ほどは、美味しくはないのですが、ビタミン、ミネラル、食物繊維を豊富に含んでいる健康食でした。当時は、玄米だけではなく、ヒエ、アワ、キビなどの雑穀類やイモ類を混ぜて出していたようです。

 

戦国時代は流通が未発達で保存技術も発達してなく、常に肉や魚、鳥のようなたんぱく質や脂質が取れるわけではないので、穀類から必要な栄養素を取ろうと雑穀米になっていたのです。

 

腹持ちよく栄養豊富な味噌汁

singen-takeda(武田信玄)

 

戦国時代の食事にも味噌は欠かせませんでした。大豆を発酵させてつくる味噌は塩分が含まれ、肉体労働をする武士には欠かせないだけでなく保存性が高くて腐りにくく、大豆に由来するたんぱく質やビタミンが含まれていました。

 

戦国武将は味噌の貯蔵に注意を払い、伊達政宗(だてまさむね)は軍用の味噌工場を建設し、武田信玄(たけだしんげん)も軍用の味噌を製造し長野県名産信州味噌のルーツとも言われています。もう一つ、味噌汁は中に根菜や葉野菜を入れる事で腹持ちを良くする事も出来て経済的でした。戦国時代は、食事の最期にオカズの残りをご飯に乗せ、その上から味噌汁を掛けて食べるねこまんまも一般的だったようです。

 

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合戦時の食事

battle-Soldier(合戦に参戦する兵士)

 

合戦時の食事は普段の一汁一菜とは大きく異なり、大量の白米や味噌のような高たんぱくなオカズを振る舞ったそうです。越後の龍、上杉謙信(うえすぎけんしん)は普段は一汁一菜の質素な食事でしたが合戦が近づくと飯を大量に炊かせて、酒や山海の珍味を並べて部下に大盤振る舞いしました。謙信の部下は、これを見て合戦の近い事を知り、御馳走に舌鼓(したづつみ)を打ちつつ気を引き締めました。

kenshin-uesugi-sake(上杉謙信は酒大好き)

 

下級武士の中には、出陣前の大盤振る舞いを息子にも味あわせてやろうと子連れで参加する者までいたようで、死ぬかも知れない緊張感の中で戦国大名が部下に精一杯の持て成しをしている様子が窺えます。

 

戦場での食事

armor(鎧を身にまとう武士)

 

合戦前に大飯を振る舞われると、武士たちは、鎧兜を身に着け出陣準備を始めますが、それと同時に陣中食として握り飯や乾飯(ほしいい)を用意しました。乾飯とは米を炊いた後で乾燥させたもので水を加えてもどして食べたり、炒めたり茹でたりしています。

 

また、兵糧丸(ひょうろうがん)といい米や蕎麦粉(そばこ)、豆類や魚粉(ぎょふん)を混ぜて丸めた携帯食を腹に巻いたり腰に下げていました。調味料としては、味噌玉(みそだま)芋茎縄(いもがらなわ)もあります。味噌玉は焼いた味噌を一食分ずつ丸めたもので、ただのお湯でも味噌玉をいれれば味噌汁に早変わりします。

 

軍議

 

芋茎縄は、ズイキというサトイモの茎を味噌汁で煮しめて乾燥させて縄状にしたものです。普段は荷物を縛るのに使える以外にも、そのままかじって食べられ、味噌汁に放り込めば味噌汁の具にもなりました。それ以外も持てれば梅干、乾燥させた餅、干物など兵士は食べられそうな色々な物を揃えています。一度戦場に出れば勝ち戦でない限り、食事は不安定になる事が多く食糧を確保する事は切実でした。

 

戦国時代の庶民の食事は?

farmers(農民)

 

農民の食事は米ではなく(あわ)(ひえ)のような雑穀で副菜として大根やイモなどの野菜も食べています。少しでも腹持ちを良くする為に雑炊(ぞうすい)にして食べる事が多かったようです。魚や鳥獣の肉は保存の関係で出回らず、自分で獲るか、市場で買うかしたと考えられますが当時は仏教の影響で鳥や魚以外の獣肉は余り食べられていませんでした。米や味噌は贅沢品で、日頃から食べていたのは武将や貴族など身分が高い人たちだけでした。

 

1996年のNHK大河ドラマ「秀吉」では、若い頃の羽柴秀長(はしばひでなが)が、もらった手間賃で贅沢品だった木綿豆腐を買ってくるシーンがありましたが豆腐が贅沢品扱いなのを見ると、いかに当時の農民の食生活が質素だったか分かります。豆腐が安くなり庶民の日常の食品になるのは、江戸時代からでした。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso

 

当時は、体を動かす事が少ない京都の貴族は薄味の食事を好み、労働や武芸で肉体を酷使する武士や農民は塩の効いた濃い味の食事を好んだようです。

飯がまずくてブチ切れる織田信長

 

特に、織田信長は味噌を効かせた濃い味の味付けを好み、少しでも味が薄いとマズいと怒り不機嫌になったとか、、足利義昭を奉じて上洛した信長は薄味を好む京風の食事には辟易したかも知れませんね。

文:kawauso

 

参考文献:絵解き雑兵足軽達の戦い 講談社文庫

 

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織田信長スペシャル

 

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カワウソ編集長

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