戦国時代

殿(しんがり)とは何?迷惑で名誉な最重要ポジション

battle-Soldier(合戦に参戦する兵士)

 

殿(しんがり)とは、後退する部隊の中で最後尾箇所(さいこうびかしょ)を担当する事を言い古くは後駆(しりがり)と書きました。しんがりは、撤退する味方を最後尾で守るので味方の援護を期待できず、同時に勢いに乗った敵の攻撃を限られた兵力で迎え撃たないといけないので死ぬ可能性が高く、出来れば引き受けたくない仕事でしたが、同時に人格と兵法に優れた武将が任命されるので、選ばれるのは(ほま)れという複雑な仕事でした。

 

今回は、有難(ありがた)くなく名誉(めいよ)な殿について解説しましょう。

 

戦死者の大半は退却時に生まれる

落ち武者

 

合戦において一番難しいのは退却の手順でした。こちらが下がると敵は追撃してきて人的被害が多く出てしまうからです。古今東西の合戦では、退却するつもりはなく、一時、後退したつもりが敵の追撃を受けて踏みとどまる事が出来なくなり、友崩(ともくず)れという陣形の連鎖崩壊が起き、遂には潰走(かいそう)になって一方的な殺戮戦(さつりくせん)になる事さえありました。

 

例えば、大坂夏の陣では豊臣方は総大将の秀頼(ひでより)が自決し軍も壊滅したので、徳川方の雑兵たちによる大規模な乱妨取(らんぼうど)りが、豊臣方の兵士や武将ばかりでなく、大坂城周辺の民衆に対してまで拡大、その様凄惨な様子は戦勝方の武将である黒田長政が絵師に命じて書かせた「大坂夏の陣図屏風」に描かれました。

 

豪華な金屏風には、敗残兵、逃げ惑う避難民、徳川方の足軽や野盗による略奪、誘拐(ゆうかい)、暴行、首獲(くびと)りが克明に描かれ戦国のゲルニカとも呼ばれます。このような潰走になれば、軍は立て直しが困難どころか、そのまま本拠地まで攻め取られて滅亡ともなりかねません。殿は一度の敗戦ではなく、組織を活かし明日へ繋げる為にどうしても必要な存在だったのです。

 

月山富田城攻めで殿をつとめた毛利元就

motonari-mori-Conquer(中国を制覇する毛利元就)

 

戦国史上有名な殿(しんがり)には、天文12年(1543年)の大内義隆(おおうちよしたか)による第一次月山富田城(がっさんとだじょう)攻めがあります。この時の戦いは尼子勢の徹底抗戦により戦争が長期化し、大内軍が疲弊、一度は寝返った国人衆が再び尼子氏に寝返り大内軍は退却します。この時、毛利元就(もうりもとなり)隆元(たかもと)父子は大内義隆から殿(しんがり)を命じられました。

Motonari-Mori-shoot-arrow(矢を放つ毛利元就)

 

撤退は困難を極め、尼子軍の激しい追撃に加えて土一揆(どいっき)の待ち伏せまで受け毛利軍は壊滅。元就と隆元は追い詰められて、自刃を決意しますが、家臣の渡辺通(わたなべとおる)が元就の甲冑(かっちゅう)を着て身代わりになり、石見国(いわみのくに)の大江坂七曲り(おおえざかななまが)で、僅か7騎で追撃軍を食い止めて討ち死にした事で元就父子は何とか吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)まで退却できました。

 

退却の混乱の最中、大内義隆の養嗣子・大内晴持も船で逃げようとして船が転覆して溺死。尼子軍に追撃された小早川正平(こばやかわまさひら)も戦死していて、退却戦の激しさを物語っています。殿を経験して生き残った事で、毛利元就は中国覇者への階段を一歩上る事になるのです。

 

総大将自ら殿を勤めた信長

oda-nobunaga(織田信長)

 

もう1人、自ら殿を勤めた総大将には織田信長がいます。桶狭間(おけはざま)の勝利以来、危なくなったら一目散に逃げて天下獲りに邁進したイメージの織田信長ですが、桶狭間以前には自ら前線に立つ事も厭わない勇将でした。

 

以下は信長公記に記載された殿を務める信長の様子です。

book-Suikoden(水滸伝-書類)

 

斎藤道三は合戦に敗れ討ち死にしたとの通報があったので、信長勢は大良(おおら)の本陣まで退いた。

 

ここで本国尾張は大河を(へだ)てているので、兵員と牛馬をすべて後方に退去させ、殿(しんがり)は信長が務めると言って全軍に川を越えさせた。

 

信長の乗る舟1艘だけを残しておき、ほかの兵たちが川を渡った時、義龍方(よしたつがた)の騎馬武者が何人か川端まで駆けてきた。その時、信長が鉄砲を撃たせたので、敵はそれより近くへは攻めてこなかった。それで信長も舟に乗り川を越した。

 

japanese-matchlock(火縄銃)

 

渡河は進軍スピードが落ち混雑するポイントなのでここを狙われると大きな被害が出ます。信長はこれを見越していたんですね。

 

殿戦術 繰り引きとは?

中国大返し ver1(豊臣秀吉)

 

殿(しんがり)もただ逃げるだけでは能がないので、次第に効果的に退却を行えるように様々な工夫が凝らされるようになりました。例えば殿を1部隊ではなく2部隊で行う繰り引きがそうです。

 

繰り引きでは、最初に第1部隊が敵の追撃部隊と交戦し、しばらくしたら退却に移ります。すると、次に伏兵していた第2部隊が登場して敵と交戦して第1部隊を退却させます。その後は、第1と第2部隊が交互に追撃部隊と交戦して徐々に退却していく方法です。

 

鉄砲の射撃

 

これなら、孤立している重圧が軽減され待機している間は休養が取れるので、疲労困憊になり自滅するリスクを減らしていけました。

 

長谷堂城の戦いで使われた懸かり引き

軍旗

 

慶長(けいちょう)5年(1600年)10月1日の長谷堂城(はせどうじょう)の戦いで最上・伊達連合軍から殿(しんがり)を行った直江兼続の軍勢は、繰り引きをさらに発展させた懸かり引きという戦術を実践しました。

 

懸かり引きでは、第1軍、第2軍の他に、第2軍に鉄砲隊を付属させているのが特徴で、第1軍が退却し第2軍が追撃軍と交戦して退却した時に、戻ってきた第1軍と第2軍の鉄砲隊が双方向から攻撃を仕掛ける事が出来ます。

 

ここでは直江鉄砲隊の有効活用が功を奏し、勝っている最上義光(もがみよしあき)富神山(とがみやま)の付近で(かぶと)に銃弾が当たる程の激戦になりました。上杉軍は前田慶次郎利益(まえだけいじろうとします)水原親憲(すいばらちかのり)などの奮戦もあり、無事に退却戦を乗り切り10月4日には米沢(よねざわ)城に帰還しています。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso

 

徳川家康は、長谷堂城の直江兼続の懸かり引きを聞き及び駿府に兼続がやってきた時に、褒めたたえたと言いますし、敵だった最上義光も「直江は上方での敗戦を聞いても少しも慌てず心静かに陣払いを行い、誠に景虎の武勇ここにありと素直に感じ入り」と手放しの賞賛をしています。しんどいばかりで得るものが少ない殿ですが、それだけに武士の真価が問われたんでしょうね。

 

文:kawauso

 

参考文献:歴史通 戦国合戦作法と舞台裏 朝日新聞出版

 

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