戦国時代は戦乱の時代である事から、どうしても武力を持つ戦国大名に注目が集まり、まるで戦国大名同士の勢力争いが社会を動かしているように見えます。しかし、実際には戦国大名でも、いえ戦国大名だからこそ命令を押し付けられない強力な存在がありました。それが戦国時代の村だったのです。
異質な戦国時代の村
私たちは村というと人口密度が少ないのどかな田舎をイメージしますが、戦国時代の村は現在のイメージとは明らかに異なりました。戦国時代の村は惣村と呼ばれ、特定の地域に住む全員が参加者となり、共同武装し実力で村を防衛する組織でした。
惣村は畿内で発展した制度で年功序列を取り、年寄、宿老、乙名、と呼ばれる中年層が若衆・若者と呼ばれる十五歳から六十歳の村人を監督指導し、村における徴税や立法、そして裁判権を行使しました。
惣村は1つの国家であり、村人は田畑から住居を分離し住居同士が固まって生活する村落を形成。戦力を集中させ紛争が起きれば若衆は村存続のため命を懸けて戦いました。
中世では刀狩りのような事はおこなわれていないので、農民であってもごく普通に帯刀し、弓や槍を保有していたので紛争はすぐに死人が出る大惨事に発展します。
ここで惣村が戦う相手は、主に利害が対立する別の惣村です。村同士の利害が対立する事を「相論」と言いますが紛争の種は水利権、燃料を取る為の山林の所有権、商業権など数限りなく存在しました。
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どうして惣が誕生した?
では、どうして惣が誕生したかについて簡単に説明します。惣が出現する前、畿内の人々は貴族や寺社が所有する荘園か国有地である公領かのいずれかの土地に住んでいて、郡司や郷司、保司という公領の支配者や、田堵と呼ばれる有力な百姓、荘園の管理者である荘官の下に従属して税を払っていました。
この時代、荘園や公領の居住地は、かたまって存在せずに広い領域にモザイク状に様々な職業の人がバラバラに住んでいたようです。
しかし、鎌倉時代中期に入り鎌倉幕府の支配が畿内に及ぶようになると、関東から地頭になった御家人が荘園・公領に関係なく入り込み、地頭請けと呼ばれる年貢の徴収者になり、元々存在した郡司や郷司、保司、荘官の勢力が弱まる事になります。
この混乱の中で指導者が不在になった荘園の村人は横暴な地頭からの搾取を免れる為に団結し、水利配分や水路、道路の修築や境界紛争、戦乱や盗賊からの自衛の為1つの土地にかたまって住むようになります。
政情不安に加え、中世は気候変動により、地震、台風、旱魃、長雨、疫病のフルコースが何度も日本を襲い、毎年のように飢餓が発生し個人が生きていくのが難しい状態でした。惣村は、村存続のため構成員全てが私権を捨てる鉄の掟を結んだ団体で「総員」という意味の惣と呼ばれるようになったのです。
惣は共同体の自衛と存続を目的にした組織なので、南北朝時代を経て室町時代から応仁の乱と社会が乱れて混沌としてくると、畿内から日本各地に広がっていく事になります。
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報復の連鎖
惣村同士の紛争が激化するポイントは村の構成員に戦死者が出た時です。惣は乱世を乗り切る為に、村人が私権を捨て命懸けで惣に尽くす事で成立していましたから、村に死者が出て敵に死者が出ないという事を許しません。
こうして、戦死者が出た時から紛争は激しさを増します。利権を巡る争いから構成員の弔い合戦に性質が変化するからです。このような場合、紛争を解決する手段として被害を受けた惣村から被害を与えた惣村に「解死人」を要求する事がありました。
解死人とは、損害を受けた惣村の報復感情を満たす為に殺される人身御供の事です。
解死人について、一例を紹介しましょう。千葉県市川市にあった小金領大野という土地は原豊前守の所領でしたが、その中の西村という惣村だけが飛び地で妙見社の領地でした。理由は不明ですがこの西村に豊前守家来の石手の弟という人物が百姓を大勢引き連れて押し込んできました。
西村でも応戦し喧嘩騒動になり西村の百姓が石手の弟を棒で打ち弟は倒れます。大野の百姓は石手の弟が死んだと思い込み逆上、報復として島田という西村の百姓を棒で打ち殺しました。これで騒動は収まったのですが、やがて石手の弟は生きていた事が妙見社の領主範覚に知られます。
範覚は激怒し、神輿を大野の豊前寺に立て仏罰を降すぞ!と大野方を威嚇。石手の弟を解死人として差し出すように強硬に迫りました。恐れた大野方は石手弟に縄を打ち差し出し、範覚は石手の弟を連行して途中で首を斬り、鉾に貫いて晒し首にし報復を遂げます。
当事者ではない範覚が強硬に解死人を要求したのは西村から頼まれたからであり、それに応じないと西村が範覚を見限り妙見社の支配から抜ける事を恐れたからです。このような実力行使当たり前の惣村が、相手が戦国大名だからと言って大人しく従うのは、ありえない事でした。
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惣と戦国大名の関係
惣は侮れない武力を保有していましたが、単独の力だけで乱世を渡る事が出来ない事も知っていて、戦国大名の支配下に入り年貢を支払う代わりに村が存続できるように便宜を求めることがありました。
惣が戦国大名の支配下に入ると「指出」と呼ばれる年貢支払いの明細書を提出します。
大名側は指出の内容にもとづき、惣との間で負担額などの交渉を開始し新たな負担額を決定していました。
この際、大名側の部下が現地を視察して新しく負担額を設定する事があり、この作業を「検地」と言います。ただ、これは後の太閤検地とは違い大名が勝手に村内を歩き回り、隠し田を見つけるとかそういう実力行使ではなく、あくまで村の協力の下でおこなわれました。
こうして算出された負担額を「村高」と言い大抵収穫前の夏か収穫後の冬にかけて決定されました。ただし、村高通りに年貢が徴収されるわけではなく、「詫び言」と呼ばれる村からの年貢の減免要請が入ります。
詫び言には、災害による田畑の被害や合戦により苅田狼藉を受けた田畑の年貢の減免。村人が土地を捨てて逃げた荒れ地などの年貢免除など細かい要請があり、大名側でも村の要求を呑むかどうかで交渉し、村と大名の双方が完全合意して、はじめて村は、「請負の一札」という誓約書を大名に提出。大名は「検地書出」と呼ばれる納税通知書を村に出しました。
この年貢額を巡る交渉は揉める事もしばしばで交渉成立まで数カ月かかる事もありました。
検地書出は村だけでなく戦国大名も拘束する双務契約で、村には年貢を完納する義務があると同時に戦国大名も検地書出以上の年貢を請求できませんでした。惣村は、戦国大名相手でもこうして、したたかに渡り合ったのです。
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惣なんだ!信玄と氏康を隠居させた村人
ともに関東の戦国大名だった武田信玄と北条氏康ですが、2人は隠居した年まで1559年と同じです。これは決して偶然ではなく、その頃関東は大飢饉に陥り、惣村の村人が天候が悪いのは支配者に徳がないせいだと騒ぎ、不穏な動きを見せていました。
どうして、村人が大騒ぎしたのか?それは当時の慣例で当主が交代すると徳政を発布して年貢を免除したり、借金を一部帳消しにするなど減税措置が取られたからです。つまり、村人は減税や借金帳消しを得る為に騒ぎを起こして戦国大名を脅し、隠居や出家に追い込んでいました。
不本意に隠居を余儀なくされる信玄や氏康には戦国の村人は時に泣きたくなるほどに嫌な相手だったのです。
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戦国大名が強気に出れない理由
戦国大名が惣村に課す税は、米や穀物ばかりではなく固定資産税である棟別銭、合戦での食糧運搬業務である陣夫役、城や河川の修理を担う普請役、合戦費用の役銭と、様々な名目がありました。
この中でも特に重要なのが軍役で、これがないと合戦に出れないので中々免除されませんでしたが、それでも惣の「詫び言」次第で免除を余儀なくされる事がありました。でも、どうして外に対しては強面な戦国大名が支配下の惣に対しては、ここまで譲歩を繰り返していたのでしょうか?
それは戦国時代には、農民が逃げてしまう逃散がストライキの有効な手段になっていて、戦国大名が年貢を重くしようものなら、惣では全員で村を逃げて、あらかじめ用意していた砦に籠城し年貢の減免を求めたりしていました。
それでも戦国大名が交渉に応じない場合には、惣は大名を見限って契約を解除し別の戦国大名や国人領主の支配下に入ってしまい、大名の財政にダメージを与えたのです。
当時は、農民が田畑を捨て逃げるのは日常茶飯事でどの領国でも人不足でした。なので、農民がよそから入り込んでくる事はどの戦国大名でも大歓迎だったのです。上杉謙信や武田信玄は合戦で捉えた他国の住民を奴隷として連行し領内で使っていた位ですから、労働力が増えるのはウェルカムでした。
このように労働力需要が高い事も、戦国大名が惣村に譲歩した大きな理由です。
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戦国史ライターkawausoの独り言
惣村は不安定な政治情勢と飢饉が当たり前の気候変動の中で、村人が個人の権利を捨て団体として何とか生きていこうと考えた時に誕生した小さな国家でした。
そのため、村を存続させようといかなる犠牲も正しいことして構成員が命を投げ出して奮戦したので、さしもの喧嘩慣れした戦国大名も妥協する事が少なくなかったのです。
参考文献:百姓から見た戦国時代 ちくま新書
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