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大友頼泰はなぜ一遍に心酔したのか?実は大友頼泰は「戦国武将の祖先」だった?

07/06/2025


 

コメントできるようになりました 織田信長

 

一遍と一緒に踊り狂う庶民

 

 

鎌倉時代、踊り念仏で知られる「一遍上人」は、「元寇」という国難のとき、遊行という全国行脚によって人々の心を救う活動をしていたことで知られています。その遊行の旅の中でも、九州・豊後国(現在の大分県)内での動きは、注目すべき点が幾つもありました。今回、ご紹介するのは、鎌倉幕府の御家人で豊後国の守護だった武将についてです。

 

一遍上人(坊主)

 

その人物は、一遍に帰依し、一遍のパトロンのような存在でした。どんな人物だったのか?詳しくご説明します。どうぞご一読ください。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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元寇時の最高指揮官が一遍に帰依した!?

ほの日新聞(書類)

 

それは、大友頼泰という武将です。豊後国の守護職に任じられた人物で、元寇時には、「鎮西東方奉行」として、多くの御家人を統率し、奮闘したと記録されています。謂わば、日本軍を統率した指揮官の一人だったようです。その人物が一遍に帰依したということです。

 

これは結構スゴイことではないでしょうか?後の戦国時代には、頼泰の子孫となる戦国大名の「大友宗麟」がキリスト教に帰依したのですが、それと同等の衝撃ではないか?との印象なのです。というのも、一遍が遊行を始めてから、頼泰に出会うまで、どこかの権威ある寺院の宗派に属することなく、流浪の旅をしていたのです。着古された衣服をまとい旅していたでしょうから、周囲の人々から汚れた存在に見られた可能性は高いでしょう。それでは、なぜ頼泰は、流浪の僧侶であった一遍を信頼し、しかも帰依したのでしょうか?

 

まず一番に挙げられる理由は、やはり一遍の出自についてです。

 

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大友一族と河野一族の縁

 

 

一遍は、そもそも、伊予水軍の河野一族という武家の出身として有名です。しかも、調べてみますと、河野一族と大友一族は縁があることも分かってくるのです。例えば、大友氏の祖先で「中原【藤原】広季(ひろすえ)」という人物がいました。

 

源頼朝に重宝された大江広元

 

 

中原広季は、鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」の側近であった「大江広元」の父に当たります。大江広元の孫娘は、「河野通広」の妻となり、その間にできた子が一遍なのです。

 

また、中原広季の孫は、「大友能直(よしなお)」という人物です。能直は、武家・大友一族の初代となる人物で、「源頼朝」の側近でもありました。そして、能直の孫が大友頼泰なのです。よって、大友一族と河野一族とは遠縁になる訳です。しかも、鎌倉幕府の重臣との繋がりの深さも同時に分かってきます。

 

さらに注目すべきことは、大友頼泰の祖父・大友能直の直属の騎馬武者の軍団の中に、「河野和泉守」と記された人物がいたようなのです。この人物は、「河野通末(みちすえ)」だったという説が有力です。通末は、一遍の祖父「河野通信」の子です。河野通信は、源平合戦では源頼朝に味方し、頼朝からの信頼が厚かったと言われる人物です。一遍からすると、通末は、父・通広の兄に当たるようで、「伯父」という訳です。

 

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大友頼泰の心の拠り所になった一遍

 

このように、武家同士の縁が親近感を強くしたのは事実かもしれませんが、一遍に帰依するほどに、心を許した頼泰の心中には、相当な恐れや不安がつきまとっていたと考えられます。というのも、頼泰が一遍に初顔合わせした時は、1276年か1277年と見られるのですが、当時、元寇という国難の真っ只中であった訳です。

 

蒙古襲来絵詞

 

つまり、1274年「文永の役」と1281年「弘安の役」の間に当たる訳です。2度にわたる元寇の間に、頼泰と一遍は会ったということです。

 

攻め寄せる蒙古兵(モンゴル軍)

 

1度目の元寇「文永の役」の後、蒙古(元の帝国)軍が再度攻めこんでくる可能性があると、脅威を感じていたはずです。なんと言っても、頼泰は、文永の役では、前線に立って蒙古軍に対峙する立場でした。

 

モンゴル兵のモブ(蒙古兵)

 

蒙古軍の脅威を肌で感じていたはずですから、その恐怖や不安は大きく、現場を体験した者でなければ分からないものだったと考えられます。少しでも、その恐怖や不安を和らげてくれるモノにすがりたい気持ちは強かったはずです。ちょうどその時、一遍が頼泰の前に現れたのです。

 

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元寇

 

 

頼泰が他の宗派の僧侶よりも、一遍を選んだ理由は?

踊り念仏を広めた一遍上人

 

ただ、ここで一つの疑問が浮かびます。つまり、なぜ頼泰は他の僧侶ではなく、一遍を選んだのか?ということです。鎌倉時代には、多くの新興の仏教宗派が登場したにも関わらず、です。禅僧でもなく、日蓮でもなく、浄土宗や浄土真宗の僧侶たちでもなく、一遍に帰依したのです。それは、やはり、頼泰の目の前に現れたからという事実があったからでしょう。一遍は、全国行脚の遊行の旅をしていました。特に、九州での遊行活動に力を入れていたと考えられます。元寇の混乱の真っ只中に戦地の近くに飛び込んだと言える訳です。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

日本史ライター・コーノの独り言

コーノ 日本史ライター

 

一遍は、大友頼泰の管轄となる豊後国内にある「別府温泉」で、湯治の効用を一般庶民に広めたとも言われています。そして、頼泰を含めて、不安に陥っている人々に直接会って、寄り添う姿勢を見せたのです。鎌倉や京都など、現地から離れた所で、真理を説いていた僧侶たちとは、違うということだったのでしょうか。実際に現場に足を運び、不安や恐怖に陥っていた頼泰たちを和らげることをやってのけた一遍の人格者としての価値は、相当高かったと考えられるのです。

 

 

【了】

 

【主要参考資料】

・『一遍語録を読む』(金井清光・梅谷繁樹 共著)法蔵館文庫

・『大友能直と河野和泉守・ 史料で読み解く波多方板山河野氏傳承物語 第二版』中山吉弘 著 (秀英書房)

・『愛媛県生涯学習センター データベース「えひめの記憶」』のWebサイトより

捨て聖一遍

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コーノ

歴史好きのライターです。 福祉関係の仕事をしつつ、物書きの仕事も色々としています。 小説や詩なども、ときどき書いています。 よろしくお願いします。 好きな歴史人物 墨子、孫子、達磨、千利休、良寛、正岡子規、 モーツァルト、ドストエフスキー など 何か一言 歴史は、不動の物でなく、 時代の潮流に流される物であると思っています。 それと共に、多くの物語が生まれ、楽しませてくれます。

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