21世紀の現在は高度情報化社会と呼ばれます。インターネットを通じて、地球の裏側で起きた事件でさえ、ものの1日も掛からず世界中を飛び回るようになりました。
ところが情報が瞬時に伝わるという事と、正確な情報が伝わるという事はイコールではなく、実際はフェイクニュースや真偽不明のニュースが混雑して飛び交っています。さて、戦国時代も正確な情報が切実に求められた時代でしたが、真実の情報を得る事は非常に難しかったようです。
今回は将軍暗殺の大事件、永禄の政変から戦国の情報伝達の難しさを考えてみましょう。
この記事のポイント
こちらの記事のポイントは、
ポイント1 | 戦国時代の情報伝達は、戦乱の最中であり 敵対勢力の妨害を受けたりデマが撒かれるなどで不安定だった。 |
ポイント2 | 永禄の政変は三好義継や松永久通等により、 足利義輝が殺害された事件である。 |
ポイント3 | 上杉輝虎(謙信)は足利義輝と仲が良く、 その威光で関東諸侯を抑えていた。 |
ポイント4 | 足利義輝の暗殺は大事件であり、詳しい情報を朝倉氏に求めたが 朝倉氏の情報提供は遅れた。 |
です。
上杉輝虎、永禄の政変の詳細を朝倉氏に問いただす
越後の龍、上杉輝虎(謙信)は、上杉憲政の家督を継ぎ関東管領職も受け継いでいました。関東管領ばかりではなく、輝虎は13代将軍、足利義輝とも親しく、その後ろ盾を得て関東諸侯に睨みを効かせる事が出来ていたのです。ところが、そんな長尾輝虎に永禄の政変の大事件のニュースが伝聞として飛び込みます。永禄8年(1565年)5月19日、将軍足利義輝が家臣に殺害されたのです。
しかし、風聞は義輝の死去を伝えただけで誰が義輝を討ったのか?
他に誰が殺されたのか?生き残った義輝の縁者はいるのか?そのような詳細情報はなかなか伝わりませんでした。
折しも輝虎は越前の朝倉義景と友好関係にあり、義景は加賀一向一揆攻めについて、輝虎に援軍要請をしている間柄です。当然、義景より義輝暗殺についての詳細な報告が来ると輝虎は考え、ひたすらに使者の到着を待っていましたが、なかなか使者が来ず痺れを切らした輝虎は、6月14日、情報催促の使僧を朝倉氏に派遣しました。
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情報収集に苦労した朝倉氏
一体、どうして朝倉義景は上杉輝虎に足利義輝暗殺の詳細を伝えなかったのか?
もしかして、優柔不断と評判の義景の職務怠慢だったのでしょうか?いえ、実際には、そうではなく使者を送りたくても送れなかったのです。永禄の政変を知った朝倉義景は、諸国からの情報を収集しつつ、自らも京都へ飛脚を送り込んで情報収集に勤しんでいました。しかし、情報は錯綜しており、
1 | 足利義輝自ら奮戦して多く敵を斬るが、無勢により武運拙く切腹した事 |
2 | 義輝を弑逆したのは三好義継や松永久通等である事 |
3 | 義輝の異母弟の鹿苑院も路地で凶刃に倒れた事 |
4 | 義輝の生母の慶寿院が自害した事 |
5 | 義輝部下が30名余り、女房衆も少々討ち死にした事 |
6 | もう1人の義輝の弟、一乗院覚慶(義昭)は大和に落ち延びた事 |
7 | 以後、京都で騒乱はなく静寂を保っている事 |
これらの基本情報以外は、諸国からの情報は少しずつ違いがあり、それらを矛盾なく照合しようとしている間に日数が経ってしまい、輝虎への情報提供が遅れたのです。
正確性より速さ、が成立しない理由
朝倉氏のような事態に陥ると、現代の私達は「巧緻より拙速」と考え、とにかく分かる範囲の情報を発信し、後で誤りを訂正すればいいと考えがちです。
確かに現在のような情報が一瞬で世界中に発信される時代なら、それも間違いではありません。けれど戦国時代は出した情報が相手に届くまで1ヶ月以上かかる事も珍しくない時代であり、使者を出してから誤りと気が付いてもそれを訂正するのに、また1ヶ月経過してしまうのです。このようなタイムラグを考えると、戦国時代に巧緻より拙速を採用すると、どんどんデマを拡散するような結果に陥らないとも限りません。
朝倉氏が、上杉輝虎の催促を受けて、ようやく返事を出したのは戦国時代の時代的な制約が関係しているのであり、朝倉義景が優柔不断であると一概に断ずる事は出来ないのです。
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参考:戦国のコミュニケーション情報と通信 /単行本 /吉川弘文館/2020/1/29/山田 邦明 (著)
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