【動画解説】勝頼の判断ミス連発!武田家が崩壊した本当の理由|長篠の敗戦だけではなかった

25/11/2025


 

コメントできるようになりました 織田信長

 

武田勝頼

 

 

武田家の滅亡というと「長篠の戦い」が有名ですが、実はそれ以外にも、外交の失敗や家臣の信頼を失う致命的な判断ミスが重なっていたのです。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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理由1:外交政策の失敗(御館の乱)

前田利家と共に鉄砲隊を率いて武田勝頼を撃退する佐々成政

 

武田家滅亡の第一の理由は、外交政策の失敗です。武田勝頼は、上杉家のお家騒動である「御館の乱(おたてのらん)」において、当初支援していた北条氏政の弟(上杉景虎)を見限り、敵対していた上杉景勝と和睦を結びました。この裏切りにより北条氏との同盟が破綻。勝頼は織田・徳川・北条の3方向から同時に攻撃を受けるという、絶体絶命の状況に陥ってしまったのです。

 

  • 上杉家のお家騒動「御館の乱」で、支援する相手を変えるという致命的な判断ミスを犯しました。
  • これにより北条氏との同盟が決裂し、周囲を敵に囲まれることになりました。

 

関連記事:武田信玄と徳川家康に仕えた河野水軍の一派がいた!原因は承久の乱にあり?

 

 

 

 

武田信玄

 

 

理由2:高天神城を見捨てて信頼を失う

武田一門だが勝頼の時代に武田家をありのまま見限る穴山梅雪

 

第二の理由は、高天神城(たかてんじんじょう)を救援しなかったことです。徳川家康に城を包囲された際、勝頼は織田信長との全面対決を恐れ、援軍を送りませんでした。

 

武田勝頼に撤退を進言するも聞き入れてもらえず残念がる山県昌景

 

その結果、城は陥落。この対応を見た家臣や国衆(くにしゅう)たちは「勝頼は味方を見捨てる」と失望し、木曾義昌や穴山信君といった有力家臣の離反が相次ぐことになりました。

 

 

  • 徳川家康に攻められた高天神城に援軍を送らず、見殺しにしてしまいました。
  • これにより家臣団の信頼を完全に失い、有力な家臣たちが次々と裏切る結果を招きました。
  • さらに、長篠の敗戦以降の経済的困窮や、無理な動員・築城による負担増も、人々の心を離れさせる原因となりました。

 

関連記事:武田勝頼が滅亡したのは信長と同盟を考え高天神城を見捨てたから?

 

 

 

 

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【まとめ】外交の失敗と信頼の喪失が招いた滅亡

 

武田家の滅亡は、単に一つの戦いに負けたからではなく、外交での孤立化、そして家臣や領民からの信頼喪失という、複合的な要因が重なった結果でした。勝頼の判断ミスが重なり、かつて最強を誇った武田軍団は内部から崩壊していったのです。

 

 

Q&A:よくある質問

画像利用について01 織田信長 はてな

 

Q. 武田勝頼が北条氏と敵対することになったきっかけは何ですか?

日本史01 織田信長のポイント解説

 

A. 上杉家の跡目争いである「御館の乱」で、北条氏から養子に入っていた上杉景虎への支援をやめ、敵対する上杉景勝側についたことで、北条氏との同盟が破綻しました。

 

 

Q. なぜ有力な家臣たちが次々と裏切ったのですか?

日本史02 徳川家康のポイント解説

 

A. 高天神城の戦いで味方を見捨てたことで信頼を失った上、度重なる戦争や築城による負担を強いたため、家臣や領民の心が離れてしまったからです。

 

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