武田家の滅亡というと「長篠の戦い」が有名ですが、実はそれ以外にも、外交の失敗や家臣の信頼を失う致命的な判断ミスが重なっていたのです。
この記事の目次
理由1:外交政策の失敗(御館の乱)
武田家滅亡の第一の理由は、外交政策の失敗です。武田勝頼は、上杉家のお家騒動である「御館の乱(おたてのらん)」において、当初支援していた北条氏政の弟(上杉景虎)を見限り、敵対していた上杉景勝と和睦を結びました。この裏切りにより北条氏との同盟が破綻。勝頼は織田・徳川・北条の3方向から同時に攻撃を受けるという、絶体絶命の状況に陥ってしまったのです。
- 上杉家のお家騒動「御館の乱」で、支援する相手を変えるという致命的な判断ミスを犯しました。
- これにより北条氏との同盟が決裂し、周囲を敵に囲まれることになりました。
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理由2:高天神城を見捨てて信頼を失う
第二の理由は、高天神城(たかてんじんじょう)を救援しなかったことです。徳川家康に城を包囲された際、勝頼は織田信長との全面対決を恐れ、援軍を送りませんでした。
その結果、城は陥落。この対応を見た家臣や国衆(くにしゅう)たちは「勝頼は味方を見捨てる」と失望し、木曾義昌や穴山信君といった有力家臣の離反が相次ぐことになりました。
- 徳川家康に攻められた高天神城に援軍を送らず、見殺しにしてしまいました。
- これにより家臣団の信頼を完全に失い、有力な家臣たちが次々と裏切る結果を招きました。
- さらに、長篠の敗戦以降の経済的困窮や、無理な動員・築城による負担増も、人々の心を離れさせる原因となりました。
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【まとめ】外交の失敗と信頼の喪失が招いた滅亡
武田家の滅亡は、単に一つの戦いに負けたからではなく、外交での孤立化、そして家臣や領民からの信頼喪失という、複合的な要因が重なった結果でした。勝頼の判断ミスが重なり、かつて最強を誇った武田軍団は内部から崩壊していったのです。
Q&A:よくある質問
Q. 武田勝頼が北条氏と敵対することになったきっかけは何ですか?
A. 上杉家の跡目争いである「御館の乱」で、北条氏から養子に入っていた上杉景虎への支援をやめ、敵対する上杉景勝側についたことで、北条氏との同盟が破綻しました。
Q. なぜ有力な家臣たちが次々と裏切ったのですか?
A. 高天神城の戦いで味方を見捨てたことで信頼を失った上、度重なる戦争や築城による負担を強いたため、家臣や領民の心が離れてしまったからです。
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