大河ドラマ「どうする家康」において長篠の敗戦以後、急速に勢力を失ったかのように描かれた武田勝頼。しかし、それは事実ではなく、長篠の戦い以後も武田勝頼は上杉景勝と結んで徳川家康や北条氏政と戦い続けていました。そんな勝頼が急速に没落したのは、武田家滅亡の1年前、高天神城を失って以後なのです。
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信玄でも落とせない高天神城を落した勝頼
そもそも、武田勝頼の武名が轟いたのは、1574年に高天神城を2万の兵力で包囲して城主小笠原長忠を降伏させた時でした。この高天神城は小城ながら山に取り囲まれた難攻不落の砦で、武田信玄ですら落とせませんでした。
勝頼は信玄でも落とせなかった高天神城を落とした事で武田家臣団に一目置かれ、信玄死後に様子見していた遠江の国衆にも、勝頼に味方する者が現れたのです。高天神城は勝頼に取り縁起がよい城でした。
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家康にとって高天神城は喉元のトゲ
高天神城は遠江の沿岸部に近く、家康の本拠地である浜松からも離れていません。家康から見ると高天神城を落さないまま浜松城を離れるのは難しい状態であり、何としても落城させないといけない城でした。しかし、勝頼により新たに城代とされた岡部元信は織田と徳川軍の攻撃に頑強に耐え抜き、7年近くも城を守ったのです。
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徳川家康、高天神城を兵糧攻め
徳川家康は高天神城を奪い返す為、城の補給を断とうと六箇所に付城を置いてじわじわと兵糧攻めに出る事にしました。高天神城は徳川の喉元に近い代わりに武田の拠点からは遠く補給のコストが高い点を家康はついたのです。そして、1580年9月、家康は満を持して高天神城へ総攻撃を命じました。
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勝頼は高天神城に援軍を出さなかった
徳川軍の猛攻に対し、城代岡部元信と千人あまりの城兵は必死の抵抗を試みますが、補給不足で士気が低下していました。本来なら勝頼の立場としては援軍を送らないといけませんが、東の北条氏も敵に回している勝頼は兵力を救援に差し向ける余裕がなかったようです。
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岡部元信は降伏を拒否され総攻撃をかけて玉砕
勝頼からの援軍はないと悟った岡部元信は、家康に対して降伏を申し入れます。しかし、家康は岡部からの降伏を黙殺し、攻撃を続けるように命じました。絶望した岡部は1581年3月下旬、残った城兵と城を打って出て玉砕します。こうして徳川家康は高天神城を落しますが、周囲の国衆は岡部の奮戦を見捨てた勝頼に愛想を尽かし、次々と離反していくのです。
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勝頼は織田との同盟を目論んでいた
しかし、一説には勝頼には高天神城に援軍を出せる余力はあったとする話もあります。では、どうして高天神城を見殺しにしたのか?実はこの頃、武田勝頼は北条、徳川、織田と多くの敵を抱え、一つでも敵を減らすべく織田信長に同盟を持ちかけていたそうです。
戦国ドラマなどでは、織田と徳川は一枚岩のように見えますが、実際にはそうでもなく、家康も長篠になかなか援軍を送らない信長に対し、これ以上待たせるなら武田勝頼と結ぶと言って恫喝しています。勝頼も同じ感覚で、徳川との戦いに対し織田に中立の立場を取らせるのは可能と考えたのかも知れません。
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ずる賢い織田信長
ところが信長は勝頼より二枚も三枚も上手でした。窮地の勝頼の足下を見た信長は、「同盟を結んでやってもいいと思わなくもない」と曖昧な態度を取り続けたのです。この時は、家康が高天神城を攻めている真っ最中であり、勝頼は信長の機嫌を取る為に、敢えて高天神城に援軍を送らず見殺しにする事を決意します。
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勝頼は卑怯者!と信長が宣伝
さて、こうして勝頼の心を弄びつつ、信長は家康に高天神城の降伏を許すなと命じたとされます。高天神城の籠城が長引くと、それだけ援軍を出さない勝頼に対する周囲の非難が高まると計算していたのです。そして、信長は岡部元信以下、城兵が玉砕したと知ると、勝頼に対し「誰がお前なんぞと同盟を結ぶか、高天神城を見殺した卑怯者め」と突き放したのです。勝頼は信長に騙されて高天神城を失い、それ以上に人心を失って滅亡に突き進む事になったのです。
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日本史ライターkawausoの独り言
武田勝頼は軍略の才では信玄よりも上かも知れません。しかし、一方で味方を慮り、敵の心理を読むという点では信玄に及びませんでした。勝頼の没落は部下の信頼を得られずに人心を失った事で起きていて、高天神城を巡る事件は、それを象徴しているようにkawausoは感じました。
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