日本史の授業では必ず習う江戸幕府の崩壊、多くの場合それは、黒船の来航により無理矢理開国させられた無策な幕府に対して、諸藩の下級武士たちが憤り、尊王攘夷思想が渦巻いて、薩摩、長州のような雄藩が天皇を錦の御旗に押し立て、ついには幕府を武力で倒したと説明されがちです。
それはそれで間違いではないのですが、実は江戸幕府は黒船が来なくても構造的に倒れる運命にありました。その大きな理由はコメだったのです。
この記事の目次
江戸幕府を滅ぼしたモンスターコメとはズバリ!
では、結論を急いで知りたい人の為に、ここで江戸幕府を滅ぼしたコメについて、ザックリと説明しましょう。
1 | 江戸時代の武士は米を支給され、それを売って生活 |
2 | 平和の中で人口が増え、開墾が進み米の生産量が増大 |
3 | 商業が発達し換金作物が出回る |
4 | 経済的に余裕が出た農民が換金作物を作る |
5 | 好景気でインフレが発生。米の値段は上がらず武士の収入が低下する |
6 | 享保・寛政・天保の改革で物価の安定を図るが焼け石に水 |
7 | 黒船でペリーさんがコンニチワ |
以上、7つの段階を経て、武士の生活は破綻し江戸幕府は崩壊しました。ここからは、それぞれの要因を少し細かく見ていきましょう。
鎌倉時代から一貫する武士の米好き
どうして、江戸時代の武士は米を給与としてもらっていたのか?
この理由は鎌倉時代まで遡ります。当時の武士は、幕府に領地を保障され、領地の農民から年貢を徴収して生活していました。土地は保有し続ける限り、未来永劫作物を産み出すので、武士は一族繁栄の為に土地に執着し領地を守る事に一命を懸けました。
これがいわゆる一所懸命です。
戦国時代も後期になると、武士は大名が支配しやすくするために城下町に集められ、先祖伝来の土地から切り離されますが、相変わらず給与として功績に見合うだけの米を支給されていました。そして、これは江戸時代に入っても同じだったのです。
太平の世が続き米の値段が安定する
江戸時代の前期は、戦乱の後遺症から日本が立ち直ってなく、人口は少なく耕作地も荒れたりしていたので、米の値段は高いもので貨幣も同然でした。
武士は、年に一度支給される米を札差と呼ばれる商人に売却してお金に変えていたので、米の値段が高ければ生活に問題はありません。
しかし、戦乱が治まると人口が増加し、どの藩でも開墾を奨励したので、全国の耕作地面積は人口の伸びを越えて増加していき、高かった米の値段が安定してきました。これにより、札差に米を売却する武士の取り分は目減りしていくようになります。
換金作物が市場に出回る
米が安価になった事で、多くの人々が食うや食わずの窮乏生活から解放されます。人々の生活には余暇が生まれ、菜種油や綿のような換金作物の栽培が始まりました。
こうして、それまで自給自足の生活をしていた農民でも、お金で商品を買うようになり、より豊かになろうと、自らも米を作る傍らで換金作物を栽培します。やがて、米を中心に動いていた日本の経済は、その軸を貨幣にシフトさせていきました。
こうしてお米の値段は下がっているのに、物価は上がり続けるインフレ状態が進行。貨幣経済から取り残され、米にすがる武士階級の生活は次第に苦しくなります。
安易な貨幣改鋳が物価暴騰を生む
さて、武士階級同様に江戸幕府の台所も苦しくなっていきます。江戸時代の初期こそ、豊富な金銀の採掘で潤った幕府ですが、江戸時代の最初の50年が経過しないうちに、金銀の採掘量は激減し、頼りになるのは年貢のみの事態になります。
そして日本経済が米から貨幣経済にシフトすると、年貢の収入は増えないのにインフレで物価は高くなり支出は増加し、財政は苦しさを増してきたのです。
この問題に幕府は安易に小判を改鋳して金の含有量を下げるなどして、一時的に利ザヤを稼ぎますが、貨幣価値の低下はインフレを招いて物価は高騰し、庶民、そして武士の生活を苦しめるようになります。
これに懲りて、新井白石は小判を再改鋳して金の含有量を増やしますが、インフレが収まったかわりに貨幣の供給量が低下し、深刻なインフレを招く事になりました。
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享保・寛政・天保の改革の正体
このコメ問題に、最初に正面から取り組んだのが8代将軍徳川吉宗でした。吉宗の時代、幕府は幕臣に俸給を支払えないほど困窮、改革は待ったなしだったのです。
将軍に就任した吉宗は、新田開発に力を注いで年貢の徴収を増やすと共に収穫によって年貢の徴収率を決める従来の検見法から、豊作・凶作に関係なく年貢率を定める定免法に変えるなどして幕府の年貢収入を増加させました。
同時に吉宗は殖産興業を奨励し、幕府の寺社などへの援助を削減するなどして、一時、財政は黒字化しますが、上手くいかないもので、米を増産したせいで米価が下落。逆に米以外の物価が値上がりし武士の収入が大幅に目減りします。
吉宗は、株仲間に命じて米相場を監督しようとしますが、需要と供給で動いている米相場は、いかに吉宗が安定させろ!と株仲間に命じてもどうにも出来ませんでした。
そこで吉宗は小判改鋳に踏み切り、小判の金含有量を半分に削減して発行。市場に出回る貨幣量を増大させてデフレを引き起こして物価を下げ、改鋳利益で幕府の赤字を埋め合わせたりしています。
しかし、享保の改革は結局、コメに依存したものだったので根本解決にはならず、その後、田沼意次が、コメに頼る幕府の農本主義を転換し、殖産興業を奨励して税制の改革を断行しますが、それが賄賂と腐敗を招いたとして田沼は失脚。
田沼の後を受け就任した老中松平定信は、享保の改革を踏襲した寛政の改革を実施しますが、緊縮財政で貨幣経済を抑圧する政策は政治を左右するようになった大商人には不人気で、成果も乏しいものでした。
その後も、幕府は老中、水野忠邦主導で享保の改革を行いますが、これも成果は上がりません。為す術がない幕府はこうして黒船さんコンニチワを迎えてしまうのです。
不平等交換レートによる金流出でトドメ
黒船来航と言うと、不平等条約を諸外国に押し付けられても何も出来ない幕府に対して、尊王攘夷の志士が激しく反発し、そのエネルギーが倒幕に向かうイメージです。
しかし、実際にはイデオロギー以上に経済上の失策が大きいと言えます。
開国した結果、それまで国内需要を満たす量しかなかった商品が海外に大量に輸出され、国内は深刻な商品不足になり、それが米や味噌や穀物などの相場にも跳ね返り、物価の暴騰が発生しました。
おまけに、幕府は西洋に対し極端に不利な金銀の交換レートを敷いており、日本の金が海外に流出。やむなく幕府は銀と金の交換レートを海外に合わせる為、金の含有量がこれまでの1/3の万延小判を発行します。
さらに、これまでの小判については、新小判の額面の3倍で引き換える事にしたので、江戸中の両替商に旧小判を新小判に引き換える人々が殺到しました。これは激しいインフレーションと物価の乱高下を引き起こし、幕府は抜本的な解消策を見出せないまま倒壊してしまうのです。
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武士が米に頑なにこだわった理由とは?
江戸幕府には優秀な人材もいましたが、ついに江戸開府から滅亡まで、米を基軸にした経済という時代遅れな枠組みから抜け出す事が出来ませんでした。
というより、武士のDNAが貨幣経済に移行して米を捨てる事を拒否したのかも知れません。武士は戦う種族ですから、常に資産運用で一喜一憂したのでは、安心して武芸に打ち込む事が出来ません。土地から取れる米を売却しておけば、生活は百年安泰の方が武士の精神には合致するのです。
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日本史ライターkawausoの独り言
幕府が米にこだわった結果として貨幣経済への移行が進まず、現実に合わない改革を繰り返し、最期には黒船来航による巨大な世界経済に飲み込まれ幕府は終焉を迎えてしまうのです。
黒船来航は幕府崩壊の契機ではありましたが、黒船の到来がなくても貨幣経済に適合できない江戸幕府は経済の混乱を防げなくなり、どこかの段階で倒れていたのかも知れません。
参考:お金の流れで知る幕末明治 /マイウェイ出版/ 雑誌/2020/11/16
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