明治維新と言えば、日本を植民地化しようとする西洋列強の思惑に対して、西郷隆盛や勝海舟、坂本龍馬のような偉人が登場して国論をまとめ上げ徳川幕府を倒す形で日本を統一し明治新政府を樹立した歴史上の出来事と解説されます。
しかし、最新研究では西洋列強には日本侵略の意図は無かったと考えられているとか…だとすると攘夷は勘違いだったのでしょうか?ちょっと考えてみましょう
この記事の目次
西洋列強に日本侵略の意志はなかった?ズバリ!
記事の本編に入る前に、2000文字読むのが面倒という読者の方の為に、この記事の内容を単純化してかみ砕いて説明します。
1 | ペリー来航は捕鯨基地を求めたもの |
2 | 日米和親条約締結!でも騒動は起きなかった |
3 | 日米修好通商条約締結で幕府は初めて開国 |
4 | 「開国」とは制限貿易から自由貿易に転換する事 |
5 | 欧州蚕の全滅と太平天国の乱で日本が重要市場になる |
6 | 不平等条約で急激なインフレが発生。コレラなども流行 |
7 | 生活苦による庶民の西洋人に対する怒りと 幕府への失望が攘夷の下地になる |
以上がザックリとした今回の記事の内容です。ここからは、それぞれの項目を掘り下げて解説していきましょう。
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西洋列強は日本にあまり興味がない?
200年以上も鎖国による貿易統制をしていた江戸時代の泰平を破った人物が、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリー提督です。
しかし、ペリー提督の目的は日本征服ではありませんでした。当時、太平洋で鯨を獲りまくっていたアメリカの捕鯨船に石炭や新鮮な水、食糧などを売る為の補給基地を日本に置くように求めていたのです。
当時の捕鯨船には蒸気船が出始めていましたが、石炭の補給の為に各地に補給基地を設ける必要があり、太平洋に海岸線を向けている日本が絶好のポイントでした。太平洋のクジラが日本を開国に導いたのは一面の真実であったのです。
この段階では、アメリカに限らず西洋列強の領土的野心は中国にあり、日本は捕鯨基地を置くポイントでしかありませんでした。
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開国とは自由貿易の事
事実、1854年に日米和親条約が結ばれた時は、日本では大した騒ぎは起きていません。そもそも、江戸幕府は4年後の日米修好通商条約のように朝廷にお伺いを立てたりせず、独断で条約を結んでいるのです。
それもその筈で、条約の内容は木炭や食料、水の補給、それに遭難者の救助や居留地の選定であり、外国人の移動は拘束されないとはしているものの、行動範囲は下田で七里(21㎞)と限定的でした。
外国人は、下田と函館の居留地から決められた範囲でしか移動できないので、日本人の目にさほど触れる事もなく、影響もほとんどありませんでした。この段階では江戸幕府は鎖国状態を緩和しつつも維持していたのです。
しかし、1858年に日米修好通商条約が締結されると、これは大きな騒動になります。それは日本が制限貿易を捨て、アメリカと自由貿易する事を決めた転換点だからでした。つまり開国とは鎖国という制限貿易を捨て自由貿易に参加する事だったのです。
おまけに日米修好通商条約は、日本に不利な不平等条約であり、その不平等性に日本は、その後何十年も苦しめられる事になりました。
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蚕と太平天国の乱
日米修好通商条約を皮切りに、西洋列強も日本と次々と同様の通商条約を締結します。西洋列強は居留地に領事館や商館を置いて日本の物産を調査し、お茶や海産物、そして何よりも生糸にビジネスチャンスを見出しました。
その当時、欧州では病気によって蚕が全滅状態でしたし、主な輸入先の中国では太平天国の乱が起きて混乱が続き、貿易が極めて不安定だったのです。
こうして西洋における日本の重要性は急上昇。おまけに日米修好通商条約で結んだ日本の輸入関税が改正されて20%から5%に激減した為、安い海外の商品が大量に日本に入り込んで、国内の製造業を圧迫しました。
逆に、日本産の生糸、お茶、海産物は海外に際限なく輸出されていき、国内需要を満たせず、品不足から価格は高騰、それが他の商品にも跳ね返り、急激なインフレが庶民を直撃します。
それまで、西洋人をのほほんと眺めていた庶民は、急激なインフレやコレラのような疫病に苦しめられ、西洋人に反感を持つようになりました。この開国による生活苦も攘夷思想に大きな影響を与えているのです。
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攘夷は勘違いだったのか?
これまで見て来たように西洋列強は中国とは違い、日本は市場として重要視していただけで、武力征服までは考えていなかったと思います。
もちろん、日本が内乱状態になれば混乱に乗じ、さらなる不平等条約を押し付けたり、軍事費を貸し付けて領土を割譲させたり、貿易の利益が大きくなるよう策謀した可能性はあります。しかし、軍艦や兵員を送り込んで日本を征服しようとしたと考えるのは無理があるでしょう。
では、攘夷とは日本武士の勘違いであり被害妄想であり、取り越し苦労だったのでしょうか?
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攘夷の最終目標は国家主権の確立
幕末の日本に吹き荒れた攘夷の正体は、日本を我が物顔で闊歩する西洋人への怒りが姿を変えたものでした。初期の攘夷は志士と称する武士階級が西洋人を殺害したり、領事館や商館を焼き払うなど個人的な憂さ晴らしを越えるものではありません。
しかも、そのような事件を起こすと西洋列強は事件の後始末を幕府に求め、多額の賠償金を求められたり、不平等条約が強化されるなど逆効果でした。そこで攘夷の志士は考え方を変え、開国を続けて西洋の進んだ政治や経済や軍事のシステムを吸収し、富国強兵を果たした上で、幕府が結んだ不平等条約を改正し、日本に国家主権を打ち立てようと考えたのです。
国家主権とは、「国家がその領域内で行使できる排他的な権利」の事です。攘夷志士は幾多の挫折と犠牲の末、外国の干渉を一切跳ねのけ自国の事は自国で決める事が出来る国家主権の確立を目指しました。
西洋列強による直接侵略の危機は薄かったとはいえ、押し付けられた不平等条約を改正する原動力になった攘夷のエネルギーは決して無駄ではなかったと言えます。
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幕末ライターkawausoの独り言
西洋列強に日本を武力で征服する意志はなかったのですが、日本に不平等条約を押し付けて、自由貿易の名の下で不当な利益を得ようとした事は否定しえない事実です。
それに対し、自国の利益を守り国内の政治や経済に外国の干渉を許すまいと立ち上がって来た攘夷思想は維新の原動力となり、富国強兵の推進、日清・日露戦争の勝利と日本が世界に伍して国力を伸ばしていくのに、大きく貢献したと言えると思います。
参考文献:新説の日本史 SB新書
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