戦国大名が勢力を伸ばす方法は大きく分けて2つありました。1つは経済力をつけて武力を強化し力でライバルを倒して勢力を拡大する方法。
そして、もう1つは、兄弟姉妹や子供達を他家に養子に出し血縁者を増やし影響力を拡大する方法でした。奥州伊達氏14代当主伊達稙宗は子だくさんである事を利用して、東北の有力な大名と縁組を繰り返し東北の覇者となった人物です。
しかし、この稙宗養子縁組をやりすぎ、息子の晴宗と激しく対立した挙句、東北に戦国時代を呼び込んだ困った人でもあったのです。
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長享2年伊達尚宗の嫡男として誕生
伊達稙宗は長享2年(1488年)伊達氏13代当主、伊達尚宗の嫡男として誕生、慣例により11代将軍、足利義高(後義澄)の一字を受け高宗と名乗ります。永正11年(1514年)父の死去に伴い26歳で家督を相続して14代当主となりました。
同年、羽州探題(うしゅうたんだい)最上義定を長谷堂城の戦いで破ると、高宗は妹を義定の室として送り込んで最上氏を支配下に置きます。おそらくこれが、稙宗最初の縁組という事になるでしょう。
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探題大崎氏に取って代わり奥州の代表者へ
永正14年(1517年)高宗は10代将軍足利義稙の上洛祝賀の為に多額の贈物をし、管領細川高国を通じて一字拝領(いちじはいりょう)を受けて名を稙宗へ改め同時に左京大夫に任官を受けました。
元々、左京大夫は奥州探題の大崎氏が世襲する官位でしたが、これを伊達氏が獲得した事は奥州を代表するのは伊達氏であるという幕府の意思表示でした。こうして、稙宗は巧みな外交手腕で家格を上昇つつ、葛西氏や岩城氏と争い、ここに婚姻外交を織り交ぜて勢力の急速な拡大を成功させました。
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ビッグダディ最上氏を併合
永正17年(1520年)最上義定が跡継ぎのないままに死去します。義定の未亡人は稙宗の妹であり稙宗の影響力が最上氏に及ぶ事を嫌った最上の諸将が反旗を翻し、伊達氏との間で抗争が起きました。
しかし稙宗は破竹の勢いで上山城(かみのやまじょう)、山形城(やまがたじょう)、天童城(てんどうじょう)、高擶城を落とし、翌大永元年(1521年)には奥州の名門、寒河江氏を攻めます。この時、伊達軍は、縁組した大名を中心に葛西、相馬、岩城、会津、宮城、国分、最上の軍勢を集結、高瀬山から八幡原(やわたはら)にかけ長大な陣を敷きました。
滞陣は1ヶ月に及び、伊達氏と寒河江氏の間では和議が結ばれ伊達軍は干戈(かんか)を交えずに引きあげます。この戦いで最上郡及び村山郡南部は伊達氏の領土に組み込まれます。
陸奥守護に任じられ南奥州の代表に
大永2年(1522年)室町幕府は稙宗を陸奥守護に任命しました。室町幕府は陸奥国については、国人、在地領主の支配する土地として守護を設置していませんでしたが、その前例を破った任命です。
これにより伊達氏は奥州国人勢力を監督する地位となり、奥州探題大崎氏(おうしゅうたんだいおおさきし)の威信は急速に下落しました。それと同時に稙宗には京都岩清水八幡宮の造営を手伝うよう命令が下るなど、南奥州代表の仕事が増えていきます。
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急拡大した領国を整備。分国法や徴税台帳を整備
伊達稙宗は、家督相続からの30年間で南奥州10郡を支配下に収め、天文年間初頭には最上・相馬・蘆名・大崎・葛西ら南奥羽の諸大名を従属させるに至ります。
奥羽に一大勢力圏を築いた稙宗は拡大した伊達家中の統制を図るべく「塵芥集」「蔵方乃掟」「棟役日記」「段銭古帳」などの分国法や徴税台帳を次々と作成して中央集権化に努めました。
また天文5年(1536年)には、奥州探題大崎氏の内乱鎮圧のため、大崎義直の要請に応じ南奥州の諸侯を従えて出動。その代償として次男の義宣を義直の養子に入れます。この結果、稙宗は、奥州・羽州の両探題職を事実上伊達氏の統制下に置きました。
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越後守護を巡り息子の晴宗と対立
しかし、着実に成果を出していた稙宗の養子縁組外交にも、次第に不協和音が出始めていました。第1の不協和音は稙宗が娘婿の相馬顕胤を我が子同然に可愛がり、今は伊達氏の領地になっている旧相馬領の宇多郡と行方郡(なめかたぐん)の一部を返そうとした事です。
これには稙宗の長男、伊達晴宗がとんでもない事と猛反発しました。さらに、第2に稙宗は越後守護で後継者がいない上杉定実の養子として三男の時宗丸(後の伊達実元)を送り込もうとしていました。
しかし、越後守護上杉氏の後継者問題に伊達氏が介入する事に揚北衆(あがきたしゅう)の本庄房長が反発し挙兵、稙宗もこれに対抗して軍事介入したのです。また、当時、事実上の越後支配者だった、守護代の長尾為景と後継者の長尾晴景も、稙宗が越後の勢力に介入する事を警戒していました。
これに対し、稙宗は反対派に対抗する為に、越後に入国する時宗丸に精鋭の家臣100名を随行させる事を決定します。
伊達晴宗は伊達氏の精鋭が引き抜かれる事を恐れ、稙宗の排除を決意。中野宗時・桑折景長・牧野宗興ら、反稙宗派を味方につけ、天文11年(1542年)6月、鷹狩りの帰路を襲って稙宗を捕らえ西山城に幽閉しました。
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親子喧嘩 天文の乱勃発
幽閉された稙宗ですが、側近小梁川宗朝によって救出され、娘婿の懸田俊宗の居城懸田城(かけだじょう)へと脱出すると、相馬顕胤をはじめとする縁戚関係にある諸大名、稙宗チルドレンに救援を求めました。これにより伊達氏の親子喧嘩は、一挙に奥羽諸大名を巻き込む天文の乱となり、燃え上がります。
天文の乱序盤は稙宗チルドレンの多くが稙宗に付いて優勢に進みます。陸奥国では、稙宗次男大崎義宣や伊達家の庶流黒川景氏が、柴田郡まで兵を進めて留守景宗を抑えこみ、出羽では鮎貝盛宗、上郡山為家(かみこおりやまためいえ)、最上義守らが長井郡をほぼ制圧します。
ところが天文16年(1547年)、稙宗方の田村隆顕と蘆名盛氏が中通りの領有を巡り衝突すると、蘆名盛氏は晴宗方に味方しました。このため戦況が一転して晴宗方優位に傾くと、さらに稙宗方からの造反が相次ぎ、天文17年(1548年)9月、将軍足利義輝の仲裁で稙宗が隠居し晴宗に家督を譲るという条件で和睦が成立し天文の乱は終結したとされます。
稙宗王国の没落
6年間にも及んだ天文の乱で伊達氏の勢力は一気に衰弱しました。30年間に渡る稙宗の地道な縁組が破綻し、伊達氏に服属していた蘆名氏、相馬氏、最上氏などが乱に乗じて独立。特に蘆名盛氏は、伊達氏と肩を並べるほどの有力大名へ勢力を伸ばし、南奥州は群雄割拠状態に戻ります。
また稙宗が子を送り込んだ大崎・葛西両家においても、養子として送り込まれていた稙宗の子が乱の最中に討たれ、乗っ取りは失敗します。
勝った晴宗も、稙宗方についた懸田俊宗らが晴宗に反抗を続け鎮圧にさらに5年余りを必要とし、その間に晴宗方の重臣、中野宗時が子の久仲を牧野氏の後継に送り込んで力を伸ばし伊達家中最大の勢力として権勢を振るいます。
晴宗は天文の乱終結後に、家臣団を統制して集権化を図るものの、晴宗についた重臣達には守護不入権(しゅごふにゅうけん)などの治外法権を認めざるを得ず、伊達氏は没落を余儀なくされます。
伊達氏が再び、勢力を盛り返すのは、晴宗の子、輝宗、そして政宗の時代になってからの事でした。
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その後の稙宗
隠居した稙宗は丸森城を居城とし、伊具郡(いぐぐん)・宇多郡(うだぐん)を隠居領として保有しました。しかし、和睦は表面上だけの事で晴宗との争いは弘治年間になっても続いたという説もあります。伊達晴宗は、永禄8年(1565年)6月19日丸森城にて78歳の大往生を遂げます。
植宗の死後、丸森城は娘婿の相馬盛胤により接収され、以後、伊達氏は伊達晴宗の隠居領伊具郡・宇多郡回復を巡り、相馬氏と抗争を繰り広げる事になりました。
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上杉謙信と天文の乱
伊達稙宗が越後守護に送り込んだ時宗丸は家督相続に失敗し、奥州に戻ります。それにより、天文19年(1550年)上杉定実は後継者が決まらないまま死去、越後守護の上杉氏は断絶しました。
そのため、越後では守護代、長尾景虎が国主となり戦国大名としての地位を固めていく事になります。稙宗は知らない所で上杉謙信にも影響を与えていた事になりますね。
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日本史ライターkawausoの独り言
南奥州のビッグダディ、伊達稙宗の子供は男女あわせて18名もいました。この子宝という資源を稙宗は無駄なく利用し、奥州大名に続々とチルドレンを送り込んで戦国時代版、ハプスブルグ家を産み出す事に成功します。
ここまではスゴイんですけど、越後守護の地位まで狙ったり、幾ら仲が良くても他家の人間に領土を割譲するという所まで行っては、跡継ぎである晴宗との確執は回避できませんでした。
もう少し縁組を加減していれば、伊達政宗を待たずに奥州は伊達氏の下で一枚岩になって、秀吉は小田原攻めの後に激しい奥州攻めを経験する事になったかも知れません。
参考:Wikipedia
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