江戸時代、農村では独立農家が増加し男女の結婚率が増加しましたが逆に江戸では、労働力として流れ込んだ独身男性が人口の多くを占め、女性不足が発生していました。
こうした独身男性の心を掴み繁盛したのが水茶屋という看板娘を置いた茶屋でした。今回のほのぼの日本史では、元祖会いにいけるアイドル、江戸の看板娘を解説します。
江戸時代の茶屋の種類
現在の感覚で言う茶屋は喫茶店やカフェですが、江戸時代の茶屋の概念は、もう少し広いものでした。以下にタイプ別に並べてみると
- 製造されたお茶を売る葉茶屋
- 芝居観客のガイドと接待をする芝居茶屋
- 高級料理や酒を提供する料理茶屋
- 通行人や旅人にお茶を出す掛茶屋
- 看板娘がいる水茶屋
このように5種類の茶屋が存在した事が分かります。では、ここから江戸の独身男の心を鷲掴みにした水茶屋について紹介しましょう。
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18世紀の中頃 水茶屋誕生
江戸の男女比が均等になるのは幕末を待たないといけませんが、そんな江戸の男女比が、女性100に対して男性151だった18世紀中ごろ、宿場や門前町に水茶屋が誕生します。水茶屋は良質の茶葉を使い、お茶一杯六文(120円)と強気の値段設定をしていましたが、そんな割高の茶を飲みに江戸の独身男性が毎日詰めかけ大繁盛しました。
江戸中期の安永9年(1780年)には、浅草寺の境内だけで90軒もの水茶屋が存在し、最盛期には江戸で2万軒の水茶屋があったようです。
無論、江戸の独身男たちが全員お茶が好きというわけではなく、水茶屋の看板娘を目当てでした。江戸の男達は、推しの看板娘と仲良くなろうと、なけなしの銭をはたいてお茶を飲み、団子を喰い、涙ぐましい努力をしていたのでした。
時代のアイドルだった看板娘
水茶屋は従業員として、器量良しの娘を選び派手な着物を着せて客にアピールします。
明和期(1764〜1772年)の江戸には、浅草二十軒茶屋の「蔦屋」のお芳、浅草観音堂裏「柳家」のお藤、谷中笠森稲荷「鍵屋」のお仙という三美人がいて、江戸の男性を夢中にしたそうで、鈴木晴信が浮世絵に描いています。
明和期に評判になったお仙を抱えた鍵屋は浮世絵ばかりか、手ぬぐい、絵双紙、双六という一連のお仙グッズを造り飛ぶように売れ、歌舞伎の題目にもお仙を扱ったものが出るなど、空前の大ブームになっていました。看板娘は、元祖会いにいけるアイドルとして江戸の独身男に、一時の夢を見せる存在だったのです。
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推しに課金する男達
「守貞漫稿」という江戸時代の百科事典によれば、水茶屋では、最初に1斤の価格が6匁(6万円)くらいの高級茶葉を茶濾の小笟に入れて上から湯を注したものを出したそうです。
そこからは、塩漬の桜か香煎を白湯に入れて三杯を飲ませていました。これで価格は六文(120円)、一般の掛茶屋よりも少し高い程度でまぁ良心価格です。
しかし、掛茶屋と違うのは、サービスを美人看板娘がしてくれる事!
これによりスケベな独身男の見栄が爆発しました。看板娘へのチップとして、1人100文(2000円)または、4、5人で100文から200文を気前よく出す客が大勢出て来たのです。1人の平均でも24文から50文が相場のようですから現代の感覚だと、500円から1000円程度です。
今の感覚だと千円のコーヒーって感じですがどうですか?
水茶屋ファンではないkawausoは正直「たっけー!」と思いますが…
しかし、当然、平均額を払っても看板娘が良い顔をしないのは、1人で100文課金する強者がいる事でも明らかで、熱心なファン程、推しに大金を払ったのでしょう。もし、10日間毎日通うとすれば、それだけで2万円が飛んでしまいます。
1人客は分かりますが、面白いのは4〜5人で1看板娘に100文から200文課金している江戸っ子の存在ですね、「○○ちゃん親衛隊」みたいな感じだったのでしょうか?
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やっぱり儚い夢でした
江戸の独身男のアイドルとなり、あわよくばと男のスケベ心をかき立てた看板娘ですが、ファンとトップアイドルが結婚する事が滅多にないように、看板娘もいずれファンの手の届かぬ場所に消えてゆく運命でした。
明和の三美人の1人だった笠森お仙は、明和7年(1770年)19歳の時に、何も言わずに水茶屋から姿を消します。異変を知ったお仙ファンが詰めかけると茶屋では、お仙の父が煙管をくわえて黙っているばかりでした。
では、お仙がどこに行ったかと言えば、幕府旗本御庭番、倉地政之助に見染められて嫁いでしまっていたのです。
お仙は町人鍵屋五兵衛の娘なので、最初に旗本、馬場善五兵衛信冨の養女として入り、そこから倉地家に嫁いだそうで、幸いにして9人の子宝に恵まれたお仙は文政10年、1月29日に77歳の天寿を全うしました。
ああ、気の毒なのは、お仙にひたすら課金していた江戸の独身男たち、きっと突然の別れに、天を呪い、お仙を呪ったに違いありません。もちろん、看板娘は最盛期には2万人もいたわけですから、中にはファンの人と結ばれた看板娘もいたかも知れません。高望みしなければチャンスはあったのでしょう。
それでも、江戸の男女比を見ると結婚までは狭き門だと思いますが…
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日本史ライターkawausoの独り言
水茶屋ブームは過熱していくと同時に過激化していき、奥座敷で看板娘に売春させる店まで登場し、幕府の取り締まりを受けるようになりました。
そして、遂に幕府は、文化2年(1805年)看板娘は13歳以下、あるいは40歳以上でないと認めないというお触れを出し、以後、水茶屋ブームは下火になったのです。しかし、江戸時代も令和の現代も、日本人の男性というのはあまり変化していないものかも知れませんね。
参考文献:図解でスッと頭に入る江戸時代 昭文社
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