江戸時代は失業率がとても低かったってホント?


 

2020年の日本の完全失業率は2.8%で191万人が仕事を得ていない状態です。これは正規雇用で見た場合の失業率であり、派遣やパート労働者のような非正規労働者を入れると失業率は7%まで膨れ上がるという統計もあります。

 

それはさておき、江戸時代にも失業ってあったのでしょうか?

調べてみると江戸時代の失業率はかなり低かったようなのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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仕事が溢れていた江戸

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

巨大都市だった江戸には仕事が溢れていました。

江戸は軍都であり、徳川(とくがわ)の旗本八万騎と諸大名の人質と江戸詰めの家臣が消費階級として人口の半分を占めていました。

この50万人の衣食住を世話する事で、残りの50万人の町人は食べていけたのです。

幕府の旧式軍隊(兵士・モブ)

 

江戸中期以降、疲弊した地方農村からも大勢が労働力として江戸に流れ込んで日雇い仕事に従事し、放棄された田畑が荒れたので幕府が人返し政策を取った程、江戸には多くの仕事がありました。

 

また江戸は、木造家屋が立ち並ぶ過密都市で火事も多く第1次産業が活況でした。選り好みせずに健康でさえあれば1人が食べていくのに必要なお金は稼げたのです。

 

「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」という慣用句はその日に稼いだお金はその日で使うという意味ですが、仕事にあぶれる事はないという自信と、火事が多い社会で大金を持っていても仕方ないという刹那的な風潮が入り交じったものでした。

 

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誰でも出来る棒手振り

 

そんな江戸で、特別な技術も元手もなしに手軽に始められる商売が棒手(ぼて)振りでした。棒手振りとは、文字通り天秤棒の両端に野菜や魚、水、甘酒、飴細工、油、ホウキのような商品をぶら下げて売り歩く行商人の事です。

 

江戸時代にはコンビニもスーパーもないので、多種多様な行商人が江戸八百八町を隅々まで廻り、独特の掛け声を挙げて品物を売っていました。棒手振りは落語の題材にもなり、与太郎物の代表の「かぼちゃ屋」や人情物の「芝浜」も天秤棒を担いで商品を売り歩く行商人が主人公です。

 

棒手振りは自分で市場に行き商品を仕入れて、それに利益を乗せて商売するのですが、野菜売りなら1日に400文(現在価格で8000円)を稼げたので、1人で暮らすには十分な収入がありました。

 

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お金がなくても大丈夫

宋銭 お金と紙幣

 

しかし、棒手振りを始めるとしても道具は人から借りるとして、商品を仕入れるお金が必要です。その元手がない人はどうしていたのでしょうか?

 

その場合は、「俺は棒手振りを始めるぞ」と宣言すれば、友人たちが奉加帳(ほうがちょう)を回して隣近所や商家などから少しずつ資金をカンパして集めてくれました。

 

このお金を元手に商品を仕入れる事で無資金でも棒手振りを始める事が出来たのです。

 

後漢書(書類)

 

この奉加帳でカンパしてもらった資金に返済の義務はありませんが、その代わりいい加減な理由で仕事を辞めると、銭を持ち逃げして近所の人の顔を潰した事になって信用を失い村八分にされる恐れもありました。

 

そのため、奉加張で援助を受けて商売を始めた人は、多少苦しくても仕事を投げ出したりしないでマジメに勤め、それが離職率を下げている側面もあったようです。

 

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新選組

 

子供も働いていた

 

江戸の町は全体の7割が貧家の長屋住まいだったので、結婚して子供が出来ると家計には余裕がないのが普通でした。そんなわけで子供も貴重な労働力であり天秤棒を担いでシジミを売ったり、飴菓子や雑煮、お汁粉などを売り歩いて家計の足しにしていたようです。

 

もっとも商売ばかりでなく、江戸では貧しい家でも子供を寺子屋に通わせ立身出世の為の学問を身につけさせる事を忘れてはいませんでした。

 

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江戸の花形三職

名古屋城

 

21世紀の現在にも憧れの人気職業があるように江戸の町にも人気の仕事がありました。それが、大工、左官、鳶職の3つでいずれも高い技量を必要とする職人です。

 

こちらの三職は個人で始める事は出来ず、師匠について何年も厳しい修行をしないといけませんが、1人前になると大工では1ヶ月におよそ5両(50万円)も稼げました。

 

前述した理由で江戸は火事が多いので、大工は引っ張りだこで腕が良い大工になれば、大金を稼いで安定した生活が出来たのです。

 

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病気して働けないと一転して地獄に

疫病が蔓延している村と民人

 

このように選り好みしなければ、仕事にありつけ生計が建てられた江戸の町人ですが、怖いのは病気して働けなくなった時でした。

 

江戸時代には社会保障の税金も弱者救済の法整備もほとんどありません。大工などの花形職も「道具と病気は自分持ち」で怪我や病気は自己責任が普通でした。

 

病人やけが人は、身内や社会が見るのが当然とされていたので独身者だったり身寄りがない状態で病気になると悲惨な状況に陥り、江戸時代には物乞いも大勢いたのです。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

大都市の江戸では、絶えず仕事が産み出されていて失業率は低かったようです。しかし、それは健康であれば食いっぱぐれがないというレベルであり、一度病気になり働けなくなれば、社会保障が皆無の社会で乞食になるより仕方ないというのが厳しい現実でした。

 

失業があっても社会保障が機能している現代の方が、生きやすい社会ではないかとカワウソは思いますね。

 

参考文献:図解でスッと頭に入る江戸時代 昭文社

 

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