日本史は次々に新しい定説や発見が繰り返されています。関ケ原の戦いにしても、実際にはそれで徳川の天下が定まったわけでもないようです。逆に日本史には大事件だったにもかかわらず、あまり取り上げられない為に忘れさられてしまった大事件もありました。
それが、生麦事件を原因に起きたイギリス、フランス、オランダ、アメリカ艦隊十二隻の横浜入港事件です。
生麦事件とは?
生麦事件は文久2年(1862年)8月21日。東海道神奈川宿近くの生麦村で、薩摩藩主島津茂久の実父、島津久光の行列を騎馬で横切ったイギリス人が薩摩藩士によって殺傷された事件です。
この日、イギリス人たちは横浜の居留地から川崎太師方面に向かう途中、東海道を西に下る久光の行列とぶつかりました。事件に激高したイギリスは本国から軍艦を呼び寄せ、アメリカ、フランス、オランダも同調。軍事的に威圧しながら謝罪と賠償金の支払いを幕府に強く迫ります。
薩摩藩は賠償金の支払いを一切拒否。これが薩英戦争の発端になります。
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尾張藩邸の婦女子江戸から避難
四カ国の軍艦が横浜港に入ったのは事件の翌年でした。開戦も辞さない諸外国の強硬な態度に江戸城、そして江戸の町は大混乱に陥ります。尾張藩江戸屋敷でも大騒動が持ち上がりました。
江戸城に登城した藩主、徳川茂徳はイギリスが幕府に突きつけてきた強硬な要求を知り、これは開戦を避けられないと考え、江戸屋敷に住む婦女子に対し夜中に帰国の仕度を命じたのです。
屋敷内は灰神楽の立つような騒動になり、茂徳の命令から3日後、ようやく女性たちは中山道を経由して帰国の途につきます。東海道を経由しなかったのは、太平洋沿いの東海道を経由すると横浜港に停泊中のイギリス軍艦の襲撃の危険があった為で山間部の中山道経由で帰国させたのです。
今から考えると何を大袈裟なと思うかも知れませんが、それだけ外国艦隊の横浜港停泊が恐怖だったのです。
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大混乱する江戸周辺
四カ国艦隊が横浜に入港すると幕府は市中の婦女子や病人などが江戸近郊へ立ち退く事を許可します。これにより江戸の出入口は避難民でごった返し、特に中山道板橋宿、日光道中千住宿、甲州街道の内藤新宿がはなはだしい喧騒に包まれました。
この頃、後に慶應義塾の創始者になる福沢諭吉は豊前中津藩士の身分のままで幕府外国方に出勤し江戸城内で翻訳事務に従事していました。つまりイギリス側の強硬な態度を伝える書簡を翻訳するのが諭吉だったのです。
その時、江戸の様子を諭吉は後年、次のように語っています。
(前略)その時の騒動は、江戸市中、そりゃもう今に戦争が始まるに違いない。何日には戦争が始まるなどと言う大評判(中略)
私はその時、新銭座に住んでいたから、とてもこりゃ戦争になりそうだ。ならば、逃げるよりほかにしようがないと、コソコソ逃げ仕度をする始末で…そこで、いよいよ期日が差し迫ってもう掛値なし一日も負からないという事になった。という事情も、私は政府の翻訳局にいて詳細に知っているから尚たまらない。
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諭吉の口調からは、当時の江戸市民が四カ国艦隊との戦争に怯えて右往左往している様子が見て取れます。それは最初の黒船来航以上の衝撃だったのです。
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賠償金を払いたくても払えない幕府
「こんなに江戸市民が混乱しているなら幕府はともかく賠償金だけは支払えばいいのに」
皆さんは、こんな風に思うでしょうが、幕府は賠償金を支払いたくても支払えない状態にありました。
この事件より少し前、幕府は桜田門外の変で衰えた求心力を回復しようと皇室から将軍に嫁を迎え幕府と皇室を一体化して国難を乗り切ろうとします。これを公武合体と言います。
孝明天皇は幕府の押しに負け、異母妹の和宮を14代将軍徳川家茂に輿入れさせる事を承知しますが、その交換条件として間違いなく攘夷を実行する事を幕府に約束させました。
これが幕府の賠償金支払いを不可能にしていました。攘夷を実行すべき外国に賠償金を支払いましたでは、天皇が納得するわけはありません。
この当時、天皇の背後には倒幕の姿勢を鮮明にした長州藩がいましたが長州藩も幕府が本当に攘夷が出来るとは思っていません。
できもしない攘夷を幕府に突きつけ、幕府の権威を失墜させれば攘夷を高らかに宣言する自分達の株が上がり政治的に有利になるとしか考えていないのです。こうして長州藩の策謀に振り回される幕府を見て、江戸市民は失望し不安に駆られて、パニックが増幅していたのでした。
あれ?野党やマスコミにギャーギャー言われ、支持率ばかり気にして右往左往している現在の自民党政権とそんなに違わないような気も…
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土壇場で賠償金を支払う幕府
尾張藩のように婦女子を国許に避難させないまでも、江戸城近くにあった上中屋敷を立ち退いて郊外にあった下屋敷や抱屋敷に避難させるケースは多々ありました。
戦火を危惧して藩主の家族のみでなく、屋敷内の家財道具も移転し、郊外に土地がない大名は郊外の農地を確保するなど需要が高まりました。土壇場で幕府は老中格の小笠原長行が独断で賠償金支払いに応じ戦争は回避されますが、小笠原は大坂で責任を取らされ老中をクビにされます。
こうして、多くの江戸市民が戦争の恐怖に怯えた生麦事件は一応収束しました。
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日本史ライターkawausoの独り言
生麦事件前後は尊王攘夷勢力が、圧倒的な勢力を誇っていた時期で天誅騒動や将軍家茂の上洛、新選組による池田屋事件や七卿落ちなど、幕末の大事件が目白押しです。
そのせいか、江戸市民を恐怖のどん底に陥れた四カ国艦隊の横浜港寄港は省略される事が多いのですが、それは紛れもない戦争の危機であり庶民にとっては黒船来航よりも遥かに恐ろしい事件でした。
参考文献:江戸の不動産 文春新書
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