戦国時代の日本の中心、畿内から離れた地域を紹介するシリーズ。今回は対馬を紹介します。現在も国境の町としてクローズアップされることがある対馬。
戦国時代は朝鮮王朝や九州との関係の記録が残っています。そして豊臣秀吉の朝鮮出兵では存在感を発揮しました。そんな戦国時代の対馬の状況を解説します。
この記事の目次
戦国時代における対馬の人口
戦国時代の対馬の人口ですが、歴史人口学者の鬼頭宏氏による調査で1600年の推定人口の記録がありました。それによると5900人です。それ以前1150年が4500人。900年が3100人でした。
ところが古代800年のころは7000人と多く、725年に至っては9900人となっていました。奈良時代に多いのは他の人の文献でもそうなっています。明確な理由はわかりません。
人口統計の方法が年代によって変わっている可能性。あるいは古代から大陸の渡来人が日本に渡ってくるのは対馬経由が多く、さらに遣唐使が立ち寄ることが多いのが、古代に人口が多かった理由として影響しているかもしれません。
その他にも新羅、刀伊、元など定期的に大陸から襲撃、虐殺事件が起きているので、その影響での人口減少も考えられるでしょう。また室町時代に対馬に渡った宗氏が支配してからは大きな虐殺などが起こっておりません。結果的に人口が少しずつ増えて行ったことが考えられます。
ちなみに現代平成27年での対馬の人口は13000人でした。
戦国時代の対馬を主に支配していた者・豪族
戦国時代に対馬を支配していたのは、主に次の勢力です。
・宗氏
対馬は古代から朝鮮半島の王国との中継点の役目を果たしました。
白村江の戦い、刀伊の入寇、元寇といった大陸側からの攻撃での被害の記録が残っています。古代のころは九州にあった大宰府の管轄下で、島に防人が常駐していました。
鎌倉時代になり惟宗氏が対馬に渡ってからは、この子孫である宗氏が島を支配します。記録では南北朝時代に、室町幕府が宗盛国を守護代として承認。
後に守護に昇格します。当初は西国の大名との接点も多かったのですが、戦国時代にこの近海を荒らしていた倭寇が登場すると、その対策として朝鮮王朝と共同で対策を行い、結果的に独占的な地位を固めています。
とはいえ朝鮮王朝とは何度が衝突しています。1419年に李氏朝鮮軍が倭寇討伐の名目として対馬に侵攻。応永の外寇と呼ばれる1ヶ月間の戦闘があります。宗氏はこれを撃退して朝鮮軍を追い払いました。その後1443年に朝鮮王朝と和睦の条約を結んでいます。
また1510年には朝鮮半島で三浦の乱が起こり、再び宗氏と朝鮮王朝が戦いました。同時に宗氏は元々の本拠地、九州にも何度か出兵しています。宗貞盛は大内氏と戦っています。
ところが宗氏の元の支配者だった少弐氏が滅亡すると、宗氏は対馬に撤退しました。その後豊臣秀吉が台頭し島津氏への九州討伐の際には、秀吉に従います。その後起きる二度の朝鮮出兵では、朝鮮半島への中継基地となり、一番隊の小西行長軍と共に朝鮮出兵の先鋒を務めました。
秀吉亡き後行われた関ケ原の戦いでは、石田三成の西軍に属して戦います。徳川家康は、朝鮮との取引をする際の重要な存在として宗氏の本領を安堵。そのまま幕末まで宗氏が対馬藩として続きました。
応仁の乱から家康の天下統一までに対馬で何が起きていたか?
応仁の乱の前から徳川家康が天下を支配するまでの間に対馬で起きた主な出来事です。
- 初代・宗重尚対馬国の阿比留親元の反乱鎮圧のため島に渡り、対馬の国主となる。
- 2代・宗助国 蒙古軍の対馬侵攻で討ち死。
- 8代・宗貞茂 李氏朝鮮との通交開始。
- 9代・宗貞盛 李氏朝鮮の襲来・応永の外寇で奮戦。九州では大内氏と対立。
- 10代・宗貞国 少弐氏を助けて大内と戦うも敗れ、筑前にあった所領を奪われる。
- 17代・宗義調 1557年に李氏朝鮮と丁巳約条(ていしやくじょう)を締結し交易を再開。
- 18代・宗義智 1579年に義調の養子となり家督を継ぐ。
- 1587年に隠居していた義調が当主として2年間復帰。
- 九州討伐の際に豊臣秀吉に従い対馬を安堵。
- 秀吉により李氏朝鮮の服属させる命令を受ける。
- 義智、朝鮮出兵「文禄の役」で小西行長の一番隊に属し、最先鋒として進軍。
- 朝鮮出兵「慶長の役」でも最先鋒として奮闘。
- 秀吉の死により中断された朝鮮出兵の終了時に、追撃に来た明と朝鮮軍を撃破。味方の撤退をサポート。
- 関ケ原の戦いで西軍につき伏見城を攻撃。
- 家康からの罪は問われず、本領安堵・対馬藩を立藩。
- 朝鮮王国との関係改善修復し、幕府から独立した状態で朝鮮との交易をおこなう。
なぜ対馬は首都になれなかったのか
対馬は琉球と違い、古代から日本の大和朝廷に従っていました。古代は太宰府の管理下にあり、鎌倉以降は宗氏が島を支配しています。戦国時代には倭寇が活発に動き出したため朝鮮王朝と協力したり、対立して戦ったりという歴史があります。
戦国時代も終盤になり、秀吉の時代を迎えると、いち早く秀吉に従い、朝鮮出兵のための交渉や中継点として機能。家康の時代になっても、西軍でありながら罪に問われることなく、朝鮮との関係修復のために働きました。
対馬は離島にあるため日本の首都になる可能性は皆無。また対馬が独立を図ったり、朝鮮王国側に一方的に属したりということもありませんでした。但し中世のころには、一時的に朝鮮王朝から官職が与えられた時期があり、日本・朝鮮双方に服属しながら交易を進めています。
対馬の経済面について
対馬の経済は日朝間の貿易でした。対馬は島の9割が山地のため農作物に関する収入はあまり期待できません。その代わり朝鮮との交易を独占できる環境にありました。戦国時代には倭寇がこの地域を荒らして好き勝手にしており、朝鮮王国とは倭寇対策で協調体制を取っています。
朝鮮王朝の3代目の太宗は別の野望がありました。倭寇掃討という名目で対馬に侵攻してきます。その間は交流が途絶えて対立しましたが、その後の世宗の時代には融和策が取られ、朝鮮通信使を対馬に3回送ってきました。
1443年に対馬と朝鮮の間で癸亥約定(嘉吉条約)を結びます。これは歳遣船は年50隻を上限とされ、歳賜米200石が朝鮮から支給される内容でした。さらに朝鮮南部海域の漁業権も宗氏に与えられています。また日本から朝鮮への渡航は宗氏が統制することになりました。
しかし秀吉の朝鮮出兵により、両国の関係は一時完全に途絶えます。しかし江戸時代になると関係改善を狙った家康により、関ヶ原で対立したのにも関わらず、お咎めなしとなりました。そして難航の末朝鮮との関係が回復。朝鮮通信使を支援しながら朝鮮外交で藩財政を支えました。
地震や津波などの自然災害について
記録上に残っている対馬の自然災害を紹介しましょう。1449(宝徳元)年の夏に地震が起こっている記録があります。対馬で発生したとされますが、詳しい情報が残っていません。
もう一つは1670(寛文10)年9月28日に対馬地震が発生し、震度6以上とあります。人的被害などの記録は残っていません。また津波についても記録が残ってない状況。そのため自然災害については、元寇時に元軍を敗走させた台風が定期的に来る以外、大きなものは少ないでしょう。むしろ殺戮や襲撃といった人的な被害のほうが大きいようです。
戦国時代ライターSoyokazeの独り言
戦国時代の対馬は、室町時代に島に上陸した宗氏が代々国主として支配しました。朝鮮王朝との貿易を独占している一方、日本側とも接点があります。特に豊臣秀吉の朝鮮出生時にも粘り強く交渉、攻撃のときには最先鋒を務めました。
関ヶ原では反徳川家康側に立ちましたが、朝鮮王朝との関係改善を意識した家康が重視したため難を逃れ、幕末まで江戸幕府と朝鮮王朝との接点として役目を果たします。