元寇

【蒙古襲来】一番乗りは竹崎季長ではなかった?

armor(鎧を身にまとう武士)

 

武士の世界では、一番乗り、一番槍、一番首のように最初に敵陣に到達した武士を褒めたたえる習慣がありました。

 

 

元寇においては、蒙古襲来絵詞で知られる竹崎季長(たけざきすえなが)が指揮官である少弐景資(しょうにかげすけ)に直訴して、蒙古軍に突撃した事から竹崎季長が一番乗りのように思いますが、実際の一番乗りは竹崎季長ではありませんでした。

 

今回は知られざる元寇一番乗り、菊池武房(きくちたけふさ)を紹介します。

 

無位無官の菊池武房

 

菊池武房は9代菊池家当主の菊池隆泰(きくちたかやす)の子で幼名は二郎です。蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)に姿が描かれるなど著名ですが生涯には不明の所が多く墓も分っていないそうです。

 

しかも、菊池武房の時代の菊池氏は、あまり全盛期とは言えない状態でした。それと言うのも、治承(じしょう)寿永(じゅえい)の乱で菊池氏は平家についたり源氏についたりして腰が定まらず、頼朝に不審の眼を向けられ、恩賞では守護に任じられた少弐氏(しょうにし)や大友氏、島津氏に遠く及ばず、おまけに周囲を関東系の御家人に包囲され監視されていました。

 

不遇な菊池氏は、8代菊池能隆(きくちよしたか)承久(じょうきゅう)の乱で後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)について敗北、北条泰時(ほうじょうやすとき)に所領を減らされます。菊池武房は削られた所領の挽回を目指し、肥後国守護の名越時章(なごしときあき)、さらに肥後守護代の安達盛宗(あだちもりむね)と仲良くなりなんとか家名を盛り上げようと奮闘します。

 

そんな折、蒙古襲来の噂があり、菊池武房にも声が掛かりました。なんと、この時、菊池武房は無位無官だったようで、重視されていないっぷりが伝わります。

 

味方武士団さえ出し抜き蒙古攻撃一番乗り

鎌倉時代の侍(武士)

 

文永11年(1274年)10月20日、蒙古軍は博多湾の早良郡(さわらぐん)に襲来し、早良郡の百道原(ももちばる)より東へ3キロの赤坂を占領して陣を敷きます。

 

 

一方で、日本軍は総大将の少弐景資の下、博多の息の浜に集結し、そこで蒙古を迎撃しようと待ち受けていました。少弐景資が迎撃作戦を選んだ理由は、蒙古が陣を敷く赤坂は、湿地帯で馬の足場が悪かったからのようです。しかし菊池武房はそれに従わず、弟の赤星有隆(あかぼしありたか)と共に百騎余りで赤坂の松林のなかに陣を敷いた蒙古に奇襲を掛けます。

 

不意を衝かれた蒙古軍は、上陸地点の早良郡のうちにある麁原(そはら)へと退却させました。このように、蒙古に最初に一撃を加えたのは竹崎季長ではなく、菊池武房なのです。

 

【蒙古が海からやってきた】
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帰還する途中、竹崎季長にカッケー!と言われる

西遊記巻物 書物_書類

 

菊池武房は、蒙古軍を追い散らし、敵兵の首も獲ったので息の浜に戻ろうとします。そして、この時、少弐景資に先駆けを直訴して許された竹崎季長と遭遇するのです。この場面は、蒙古襲来絵詞に描かれているので、適当に現代語訳してみましょう。

 

私は、博多の陣で蒙古を討ち取り、肥後国一番の武名を挙げようと住吉(すみよし)の鳥居を通過し、小松原を通って赤坂に向かう途中、葦毛(あしげ)の馬に紫逆沢潟(むらさきさかおもたか)の鎧に(くれない)母衣(ほろ)を懸けたる武者が百騎あまりで向かってきた。

 

見れば、兇徒の陣を討ち、賊徒を追い落として、敵兵の首を太刀と長刀の先に貫き、左右の従者に持たせ実に清々しい姿をしているではないか

 

私が「あなたはどこのどなたですか?大変に涼やかに見受けられますが?」と問うと

「私は肥後国の菊池二郎武房(きくちじろうたけふさ)という者です。そういうあなたはどなたでしょう?」と尋ねるので

「私は、竹崎五郎兵衛季長(たけざき・ごろうひょうえ・すえなが)、これから一番駆けをしようと思うのですが、

どうか見届け人になっていただけませぬか?」と頼んだ。

 

 

このように、菊池武房は、蒙古兵の首を2つ、刀と長刀に貫いて高々と従者に掲げさせ、百騎あまりの一族郎党を従えてやってくる涼やかな武将として蒙古襲来絵詞に描かれています。

 

竹崎季長は、菊池武房カッケー!と思い印象に残ったのでしょうね。

 

文永・弘安の役で活躍するも不運だった

京都御所

 

菊池武房は、続く弘安(こうあん)の役でも活躍し、防塁(ぼうるい)の上で胡坐(あぐら)をかいている姿を蒙古襲来絵詞に描かれています。しかし、活躍に比較して幕府からの恩賞はなく、おまけに親しくしていた恩賞担当の御恩奉行(ごおんぶぎょう)安達泰盛(あだちやすもり)、盛宗父子が霜月騒動(しもつきそうどう)御内人(みうちにん)平頼綱(たいらのよりつな)に討たれ、さらに不遇な状態に追い込まれてしまいました。

 

朝廷からは鎧を受けたものの、幕府からは何の恩賞もなく、それを恨んだ武房は次第に反幕府に傾いていったようです。そりゃあね、失われた領地を取り返したくて、元寇では奮闘したのに、恩賞なしなら怒らない方が不思議です。

 

ましてや、僅か5騎で鳥飼潟(とりかいがた)で負傷して落馬しただけの竹崎季長でさえ恩賞を受けたのですから、自分に恩賞がないとは納得できなかったでしょうね。菊池武房は、弘安の役の4年後の弘安8年(1285年)3月26日に41歳で死去し、後を菊池時隆(きくちときたか)が継ぎました。

 

日本史ライターkawausoの独り言

kawauso

 

菊池氏は、武功を立てつつも報われないという事が多い一族のようです。

 

この菊池武房の孫の菊池武時は、祖父譲りのおっちょこちょいであり、後醍醐天皇の倒幕の綸旨(りんじ)を受け、誰よりも早く九州で蜂起したものの、時期尚早で、少弐氏や大友氏のような御家人の支持を得られず、逆に一族郎党殺害される羽目になります。

 

しかし、倒幕が成った後で楠木正成(くすのきまさしげ)により、帝の勅を奉じて死んだのは武時1人であり忠厚第一とされ、武時の子の菊池武重(きくちたけしげ)は肥後一国を与えられました。なんでもかんでも1番が好きな菊池氏だったんですね。

 

参考:Wikipedia

 

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