村上義清は戦国時代の中期から後期にかけて活躍した北信濃の小豪族です。武田信玄を二度に渡って破り手傷を負わせたことでも有名で、信玄に敗れて本拠地を追われた後は、上杉謙信を頼り川中島の戦いの原因にもなりました。
しかし、この村上義清、戦国時代の常識を覆したフォーメーション備を編み出した天才戦術家でもあったのです。
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この記事の目次
文亀元年村上顕国の子として誕生
村上義清は文亀元年(1501年)村上顕国の子として葛尾城に誕生します。永正12年(1515年)元服し右京権亮を名乗り諱を義清としました。
翌年には従五位下に叙位され佐渡守に任官、永正14年(1517年)には父、顕国より葛尾城を譲られ永正17年(1520年)に病没した父の後を受けて家督を相続します。ただし顕国の死は大永6年(1526年)と言う説もあります。
官途を引き上げ周辺勢力と激闘
大永元年、義清は従四位下に昇叙し左衛門佐に転任、大永7年(1527年)には左近衛少将に転任となり天文5年(1536年)正四位上に昇叙しました。地方の一国人として正四位上はかなり高い官途ですが、近隣の国人との抗争で優位に立つために熱心に朝廷に働きかけたのかも知れません。
当時の村上家は北信濃では越後長尾氏と関係が深い井上氏や水内郡の高梨氏と争い、東信濃では関東管領上杉家を後ろ盾とする小県郡の海野氏を抑え信濃守護代佐久郡の大井氏を下して甲斐国の武田氏と抗争を続けていましたが、義清は小県郡を武田信虎に奪われます。
天文10年(1541年)義清は武田信虎、諏訪頼重と結び、海野平の戦いで海野棟綱、真田幸綱等滋野一族を駆逐し小県郡を完全に掌握します。
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戦国史を激変させた上田原の戦い
しかし天文17年(1548年)武田信虎を追放した武田晴信は、信濃に勢力を伸ばそうとし小県南部に侵攻しました。村上軍に対し武田軍は多勢でしたが、村上義清は存亡をかけて起死回生の一手を打ちます。
追い詰められた義清は、なりふり構わず武田晴信をブッ殺して勝利するしかないと決意し勝敗関係なく、晴信討つべしと決意している武辺の者だけで二百人の騎兵を編制。
これに歩兵の鑓持ちを二百人つけ、歩兵のうち百名には長柄の鑓を持たせます。次に足軽二百名の中で百五十名を弓隊とし、五十名を鉄砲隊とする臨時の兵種を組みました。
この六百名は「放て」「馬上に鑓を渡せ」などの号令により一斉行動する事が事前に定められ、足軽衆には五人に一名ずつ指揮官が置かれ、彼ら指揮官は個人の旗指物ではなく「一」文字で統一された部隊の旗指物をつけていました。
現在の感覚だと「だから何?」としか思えない平凡な編制ですが、天文17年には、このように六百名の部隊が1人の指揮官の号令で一斉に動くという前例はなかったのです。
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武田晴信に深手を負わせた村上義清
塩田原にて合戦が始まると村上義清は両軍が激闘を繰り広げている時に新編成の部隊を率いて出撃。合戦の状況を無視し戦場の脇を縫うように突き進み、武田晴信の本陣を発見すると、六百名で殺到したのです。
最初に弓隊百五十人が晴信本陣目掛けて矢を放ち、次に50名の鉄砲隊が一斉射撃。矢玉が尽きると、混乱した本陣に向かい足軽二百名が抜刀して斬り込みをかけました。
そして次に義清が間髪容れずに精鋭の騎兵二百と長柄鑓隊百名に号令をかけて、武田晴信の首を狙って猛突撃します。甲陽軍鑑によれば、この時義清は総大将と思しき人物と太刀を合わせたとされ、実際に晴信は重い手傷を負ったのです。
義清は奮戦したものの晴信を討つ事は出来ず、一発勝負の代償として鉄砲と多くの勇猛な家臣を失いました。それでも画期的な戦法により義清は武田方の板垣信方、甘利虎泰、才間河内守のような名将を討ち果たす事に成功したのです。
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砥石城の戦いでまたも晴信を破る
天文19年(1550年)村上義清が高梨政頼と争い本拠地を留守にすると武田晴信は小県の要衝、砥石城に攻め込んできました。
これを知った義清は急いで政頼と和睦、急遽反転して武田軍に襲い掛かります。砥石城は難攻不落の要塞で晴信は義清が戻るまでに落とす事が出来ないと悟り退却しようとしますが、義清は猛追撃して追いつき武田軍を破りました。
この戦いで晴信は足軽大将の横田高松や郡内衆渡辺雲州をはじめ1000名近い死傷者を出す大惨敗を喫します。一方で村上軍の損害は193名と1/5に過ぎませんでした。
二度も大敗し義清に苦手意識をもった晴信は謀略を使って砥石城陥落を狙うようになります。
この時、武田家には海野平で敗戦して上野国に亡命していた真田幸綱が亡命して仕えていました。幸綱はここで村上勢の切り崩し工作を開始し、天文20年(1551年)に幸綱により難攻不落の砥石城は攻略されます。
これは砥石城の足軽大将で幸綱の弟である矢沢頼綱が内通して内側から城門を開けたせいでした。要衝だった砥石城の陥落は義清の支配に動揺を与え、家臣団は次第に義清を見限り勝手な動きを見せるようになります。
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村上義清 葛尾城を捨て長尾景虎を頼る
天文22年(1553年)武田氏に通じた土豪の大須賀久兵衛尉が謀反、室賀氏や屋代氏、石川氏などの村上方の諸将が武田に降伏。義清は一時本拠地の葛尾城を脱出しますが、長尾景虎の援軍を得て、すぐに体勢を整え葛尾城奪還に成功します。
武田晴信は甲府に引き上げますが、数カ月で大軍を率いて甲府を出発し、光城、上ノ山城、刈谷原城を次々と落城。いよいよ孤立した村上義清は葛尾城を捨てて長尾景虎を頼り越後国に落ち延びました。
これにより北信濃が武田の勢力下に入り、長尾氏の本拠地である春日山城に近い善光寺平まで武田氏の力が及ぶようになり、川中島の戦いは回避不可能になったのです。
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長尾景虎に必殺編制を伝授する
越後に逃げた村上義清は自分が編み出した晴信を殺す為の編制を景虎に伝えたようです。
上杉家御年譜や謙信公御書集に記されている謙信旗本の前衛部は、鉄砲百名、弓百名、長手鑓百名、総旗、騎馬百名と村上義清が編制した一度限りの特別編制部隊と良く似ています。
元々長尾景虎は、国取りも戦略にも関心が薄く、ただ目の前の一戦に全集中する人物でした。一戦に全集中とは簡単に言えば「敵の総大将を殺れば合戦は終わりじゃね?」です。
このようにシンプルに考える景虎が義清の晴信ブッ殺すフォーメーションを見たらどう思うか?
景虎「ワシが村上殿の兵構えを率い甲斐の山猿めに仏罰を下してやりましょう」となるのは必然でした。長尾景虎が野戦において無敵に近いのは、村上義清のフォーメーションをデフォルトにし、絶えず、敵本陣の旗本を突き崩し勝利しようとしたせいだったのです。
上杉軍に恐怖した北条氏や武田氏は、景虎のフォーメーションを研究して自軍の旗本を強化、このフォーメーションは備と呼ばれるようになり、やがて上杉謙信との戦いを経験した織田軍の武将により西国へと伝播していきました。
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元亀四年信玄の五か月前に死去
第四次川中島の戦いで村上義清は、甘粕景持、高梨政頼や須田満親と共に1000名で雨宮の渡しの守備を担当していたそうです。ここは妻女山から下って来る春日虎綱、馬場信房8000名を抑える重要なポジションで義清が信頼されていた事が分かります。
ただ、雨宮の渡しは最終的には甘粕景持勢だけで守っていたようで、それ以外は長尾景虎に従い武田本隊に突撃していました。恨み重なる武田信玄への攻撃ですから、村上義清も老体に鞭打ち奮戦したのかも知れません。
しかし、信玄を追い詰めたものの結局討ち取る事は出来ず、景虎は越後に引き上げる事になり、村上義清も追撃を受けつつ退却します。元亀4年(1573年)元日、村上義清は73歳で越後根知城で病死。仇敵武田信玄の死の五カ月前でした。
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日本史ライターkawausoの独り言
村上義清は名将信玄に手傷を負わせ、多くの重臣を討ち取ったばかりでなく、武田信玄を殺す為に編み出した編制を上杉謙信に伝授する事で上杉軍を無敵の精鋭にし、やがて義清の考えたフォーメーションが備と呼ばれ、幕末まで日本の兵力編制の基礎となりました。
信濃の小豪族が考えたフォーメーションが幕末まで日本の兵士編制の基礎になるとは、村上義清は戦国の天才戦術家と呼んで差支えないのではないでしょうか?
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