戦国時代の尾張の地に生まれ、天下統一の直前まですすんだ織田信長。彼の祖先は尾張ではなく、越前にいたとされています。そして越前にある劔神社の神官にたどり着きました。
今回はそんな劔神社について、その由緒や織田家の先祖との関係を深く探っていきましょう。
この記事の目次
スサノオを祀る越前劔神社
越前劔神社は、福井県にある神社です。越前國二之宮。現在は神社本庁の別表神社になっています。
主祭神は素盞嗚尊で、配祀神として気比大神(仲哀天皇)とその子・忍熊王の合計3柱を祀っています。
創建について社伝によれば、仲哀天皇の時代のこと。天皇の子・忍熊王が、11代垂仁天皇の皇子だった五十瓊敷入彦命が作った神剣を、父から譲り受けます。そして越国(北陸地方)にいた賊徒を討伐・平定しました。
その後、素戔嗚の御霊を神社のある地に、勧請(御霊を迎え入れる)して祀ります。忍熊王は討伐・平定後も引き続きこの地を収めて開拓したことから、素戔嗚と父の仲哀天皇と共に祀られました。
境内には奈良時代の刻印が残る国宝の梵鐘をはじめ、国の重要文化財や福井県、越前町指定の文化財が多数残っています。ちなみに本殿は江戸時代の建造物、そして境内にある摂社の織田神社本殿は室町時代の造営で、いずれも福井県指定文化財になっています。
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織田荘と越前町織田
劔神社は、福井県越前町織田地区にあります。行き方は、眼鏡の産地として有名な鯖江市から国道417号線を越前海岸方面に向かう途中。この織田地区にはかつて織田荘という荘園がありました。
歴史を調べると、この地は元々、天武天皇の子・高市皇子を祖とする高階氏が所有していましたが1218年に高階宗泰が京都の歓喜寿院に寄進します。
その10年後には天台宗の南叡山妙法院門跡の所有となりました。
京都東山七条にある妙法院は青蓮院、三千院とともに天台山門跡と言われ、皇族や貴族の子弟が歴代の王子となる格式高い寺院です。そして荘園内にある劔神社の神官が、やがて織田氏を名乗りました。
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織田一族の祖・忌部氏とは
信長を生み出した織田氏の先祖をさかのぼると、忌部氏)に行き当たります。この一族は古代の朝廷で祭祀を担った氏族で、先祖は天岩戸神話にも登場する天太玉命をはじめとする三つの流れがありました。
「忌」には穢れを避けるという意味合いがあります。そして5世紀から6世紀ごろにははっきりとその名前が現れ、勢力を拡大しました。
こうして中臣氏と共に宮中の祭祀を扱います。しかし徐々に中臣氏に勢力を奪われました。そして平安時代のころには、斎部氏を名乗るようになります。
中央では勢力を失いましたが、各地には忌部氏の足跡が文献などに見られます。劔神社の神官だった織田氏も、そんな忌部氏の流れをくむ一族ではないかとされます。
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織田一族の起源は伊勢平氏嫡流?
織田氏は藤原氏(藤原北家利仁流)と平氏(桓武平氏資盛流)を名乗っています。そして系図をみると2系統が途中で混ざりこむように残っていました。
まず平氏系をみると、伝承では平資盛に行き当たります。資盛は平家一門として壇ノ浦の戦いに敗れた後、海に身を投じて自害した人物。その資盛には妾 (側室)がおり、それは三井寺一条坊の阿闍梨真海の姪と伝わっています。そのふたりの間の子供が平親真でした。
平家滅亡の際、母子は近江蒲生郡津田庄に隠れ、母はこの地の土豪の妻として余生を生きます。資盛の子・親真は忌部親澄の養子となり、忌部(斎部)親真と名乗って神官となりました。
そしてこの親真から生まれた子・親基が織田氏を名乗ったというものです。系図を更にたどると、織田親基から数代空白が続きます。
そして次に出てくるのが織田真昌という人物で、別名忌部三郎右衛門真昌です。そしてこの真昌の子常昌は、次章に詳しく説明する藤原氏の流れを汲む織田(藤原)将広と同一人物とされる流れがありました。
そして将広の子、常勝(常松)の時代に越前から尾張に移動するという記録が残っています。しかしこれについては、信長が天下を手中に収めたときに、系譜を仮冒したとか。理由としてそれまで名乗っていた藤原氏の末裔から桓武平氏に改姓するためだったとも言われています。
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織田一族の起源 関白九条道家
信長が自らの出時を桓武平氏に改姓するために系譜を仮冒する前までは、織田氏は藤原氏の系統とされていました。それは鎌倉時代前期の摂関家、九条道家にさかのぼります、彼は藤原道長の子で、平等院鳳凰堂を建築した藤原頼道から数えて8世の孫にあたる人物です。
道家の子に藤原道意がいて、彼は鎌倉幕府4代将軍藤原頼経の弟でした。ただ道意の子の名前は不明。しかし孫の名前は記録に残っており、その名前が藤原信昌です。そして彼が織田氏の祖と言われています。
その根拠として1393年の年号ががある、劔神社に対する置文と御管領左衛門守殿御感という書物が箱に入れて納められていました。そこに記された添書に信昌の名前があったからです。そして信昌の子が織田(藤原)将広を名乗りました。
研究では将広が、織田常昌と同一人物(または常松と同一人物など諸説あり)ではないかとされ、ここで平家や忌部氏との接点が生まれます。そしてその子・常松(織田常勝とも)の時代に、守護の斯波氏により尾張に派遣されました。
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織田常松(常勝)が越前から尾張守護代に
藤原氏と平家の末裔とされ、実質的には忌部氏の末裔とされる織田常松(常勝)の時代に、いよいよ越前から尾張に派遣されることになります。当時は神官というより織田庄の地頭という立場でした。
当時この地を支配していたのは、室町幕府の管領で足利義満の寵愛を受けていた、斯波義教です。越前や尾張など5か国を支配していた義教は、常松の業績をを評価し、当時義教の所領だった尾張に派遣することを決めます。
こうして常松ら織田一族は越前から尾張に行きます。常松の子である織田教長のころには、それまで尾張守護代だった甲斐氏に代わり織田氏が守護代になったと記録が残っており、彼の子孫が織田伊勢守家となります。
そして同時期に、もうひとつの織田常竹の系統が守護代として現れます。常竹の父は藤原(織田)将広と伝わり、常松の弟ともいわれています。こちらも尾張に行き、織田大和守家を名乗りました。
以降織田のふたつの守護代家が斯波氏家臣として尾張に共存することになります。そして大和守家の織田敏信の子の中に、後に信長直系の織田弾正忠家の祖・織田良信が誕生しました。
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越前を支配した信長の重臣・柴田勝家の対応
織田氏は尾張に行き守護代として活躍、やがて信長を生み出すわけですが、劔神社は越前織田の荘の地に鎮座したままでした。そして戦国時代に織田家とのつながりがあるエピソードがあります。
それは、この地を支配していた戦国大名の朝倉氏が滅亡してからのこと。越前の地は信長の重臣柴田勝家が入ります。そして勝家がこの劔神社に発した古文書が残っていました。
それは1575(天正3)年に発給された「柴田勝家諸役免許状」というもの。これは、書中に「当社之儀者殿様御氏神之儀」と書いていました。
これは信長が自らの先祖は越前でこの劔神社であることを意識しているために、信長の氏神との位置づけが明記されている点です。
勝家は織田家の古くからの重臣として信長の父・信秀の時代から仕えている武将。
信長は自らの先祖の地に対して、織田家中でも非常に重要な人物に任せたのは、そういう理由があったのかもしれません。
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まとめ:戦国時代ライターSoyokazeの独り言
尾張で頭角を現した織田家の先祖をたどると、越前劔神社にいきわたります。ここで系図が複雑になり、藤原系列と平系列の先祖が出て来ますが、実質的には古代から朝廷の祭祀を司った忌部氏との説が有力。
いずれにせよ信長はこの劔神社を重視し、重臣の柴田勝家を使って保護したことから、織田家の先祖は越前出身で室町時代に尾張に来たことが分かります。
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