戦国時代のお葬式はどんなだった?現在の葬儀の原型は戦国時代にあった!

09/04/2022


父の墓に抹香を投げつける織田信長

 

今回のほのぼの日本史は戦国時代のお葬式について取り上げます。織田信長(おだのぶなが)が父信秀(のぶひで)の葬儀の際に、抹香(まっこう)を位牌に投げつけたエピソードは有名です。信長の行為は当時でも特殊だったのですが、では戦国時代の葬式はどのようなものだったのでしょうか?

 

今回は特にインパクトの強いものを集め、戦国時代の葬儀の実像について取り上げます。

 

 

 

足利将軍家の葬儀

京都御所

 

戦国時代に名目上の権威として残っていた足利(あしかが)将軍家では、葬儀に関する資料が残されている場合が多くあります。例えば12代将軍義晴(よしはる)のものでは次の通り。義晴の時代は信長が登場する前、三好長慶(みよしながよし)が台頭してきて畿内を支配しようとしていた時期の将軍です。

 

五重塔(仏塔)仏教

 

義晴の死後、遺骸は東山慈照寺(とうざんじしょうぜんじ)に運ばれます。その際に輿(こし)にのせて担がせ。

 

次に僧、奉公衆(ほうこうしゅう)同朋衆(どうほうしゅう)が、葬送行列として続きました。その後寺に安置し、前に香炉を置き、これらの供達が焼香します。この葬儀は何日も行われ、細川、佐々木らの関係する大名が参列します。また現代に続く風習として49日の精進明けもありました。それでもこの葬儀は当時の将軍のものとしては非常に簡素なものと伝わります。

 

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はじめての戦国時代

 

 

秀吉が仕掛けた政略的な信長の葬儀

不敵な笑みで豊臣秀吉を励ます黒田官兵衛

 

葬儀を利用して自らの権威を高めていったのが羽柴秀吉(はしばひでよし)。彼は本能寺(ほんのうじ)で倒れた信長の葬儀を政治的に利用しました。

 

本能寺の変で「是非に及ばず」と切り替えの早い織田信長b

 

信長の後継者を決める清洲会議(きよすかいぎ)で、いち早く明智光秀(あけちみつひで)を討ち、主導的な立場になった秀吉は、3歳の三法師(さんぼうし)を強引に後継者に決めます。

 

清須会議b 丹羽長秀、羽柴秀吉、柴田勝家、池田恒興

 

それに反発する柴田勝家(しばたかついえ)らと対立。やがて彼らを滅ぼしますが、その前に秀吉は自らの権威に信長の葬儀を利用しました。京都大徳寺(だいとくじ)で行われ、本能寺の変で見つからなかった信長の遺体の代わりに高価な香木・沈香(じんこう)をくり抜いた仏像を入れました。宗派を超えた数知れない僧を結集させ、参列者が約3000人、そして3万もの軍勢を駐留させて警備させています。

 

柴田勝家を裏切らない佐久間盛政

 

また対立していた勝家をこの葬儀では蚊帳の外に置き、勝家が出席しないままおこなわれたため、信長後継者としての秀吉の権威が上がる結果となりました。

 

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父の葬儀に鎧兜を着たまま参列した上杉謙信

上杉謙信

 

有名な越後の戦国大名・上杉謙信(うえすぎけんしん)。彼にまつわる葬儀でも面白いエピソードがあります。それは謙信が、まだ幼少の虎千代(とらちよ)と呼ばれていたころ。父の長尾為景(ながおためかげ)が死に、その葬儀での話です。

 

為景の時代の越後はまだ不安定で、越後守護代だった為景が一気に勢力を拡大するもいつ巻き返しがあってもおかしくない状況でした。実際に為景が病没し、葬儀が行われますが、それを聞きつけた敵対勢力が、居城の春日山城(かすがやまじょう)に迫っていました。そのため虎千代は甲冑(かっちゅう)をつけ鎧兜(よろいかぶと)をきたまま葬儀に参列しています。

 

このような事例は謙信以外ではあまり出てきませんが、可能性として多くの戦国大名の立場では十分考えられます。

 

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伊達政宗が行った灰塚

皆殺しをする伊達政宗

 

独眼竜(どくがんりゅう)として戦国末期から江戸初期まで活躍した伊達政宗(だてまさむね)。彼の葬儀は「灰塚(はいつか)」と呼ばれる独特の葬儀を行いました。これは政宗の遺言で、現在の仙台市青葉区にある経ヶ峰(きょうがみね)で埋葬されたのち、連日法要を行い、政宗の死後1か月ほどが経過してから葬礼が行われます。

 

棺が用意されましたが、すでに遺体は埋葬されており、何も入っていない空の棺。葬礼後、今度はそれを焼き、その灰を集めて塚を築きます。これは伊達家だけが行っていた独自の葬式です。行ったのは政宗のほか母の保春院(ほしゅんいん)、二代藩主忠宗(ただむね)、三代藩主綱宗(つなむね)のものがありました。この灰塚は最終的に五代藩主吉村(よしむら)の代になって、戦国時代の遺風(いふう)という理由で廃されます。

 

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妻が先に死んでも葬儀に参列しない慣習を破った明智光秀

正装した明智光秀

 

明智光秀の正室、明智(妻木(つまき)煕子(ひろこ)にも葬儀に関するエピソードが残っています。お互いの仲が大変よく、光秀が側室を持たなかったほどの関係。

 

忙しくて過労で倒れる明智光秀

 

そして光秀が倒れたときには煕子が看病しました。それに疲れて煕子が倒れたときには光秀が看病のために病気平癒(へいゆ)の祈願を依頼したと言います。

 

煕子(明智光秀の妻)

 

しかし通説ではこのときに煕子が亡くなります。妻が先に亡くなった場合、通常夫が葬儀に参列する慣習はありません。しかし光秀は熙子の葬儀に参列しました。ただし、一説には本能寺の変の後に煕子が自害したとも、いずれにせよそれほどまで仲の良い夫婦だったことがうかがえます。

 

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本能寺の変の特集

 

 

 

 

ガラシャの信仰を認め、キリスト教式の葬儀を行った細川忠興

細川ガラシャ(女性)とキリスト教

 

明智光秀と煕子に間に生まれた(たま)(玉)()は、細川忠興(ほそかわただおき)に嫁ぎ、のちにキリスト教の洗礼を受け、細川ガラシャと呼ばれています。

 

自分に人望がないことに腹を立てる石田三成

 

関ケ原(せきがはら)の合戦の直前に、石田三成(いしだみつなり)に人質になるように迫ったガラシャはそれを拒否。壮絶な死を遂げ、結果的に三成の戦略を狂わす事件となりました。

 

細川忠興

 

それを知った忠興は、生前ガラシャに棄教(ききょう)を迫っていたのにもかかわらず、堺の神父・オルガンティノにガラシャの教会葬を依頼します。そして自らも出席。また藩主となった豊前小倉ではキリスト教を保護し、その菩提を弔いました。

 

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宣教師たちが記録を残した戦国武将の謎の風習「指先切り」

ルイス・フロイスの書き残した日本史

 

戦国後期に日本に来た外国人たちは、日本の文化風習をところどころにしたためています。

しかし宣教師のルイス・フロイスが記載した日本史や貿易商人のリチャード・コックスが残した記録の中には、

首をかしげるようなものがあり、それは葬儀の下りでもありました。

 

それは次の内容です。

「亡くなった藩主が火葬される場合、特に彼と近い関係の家臣や友人が、自分の指を切って火葬の火に投げ込む」というもの。しかし日本側の資料には一切ありません。ただし古代から日本では殉死の風習や体を傷つける風習があったこと。

 

現代の暴力団社会でこの指を詰める(切る)行為があることから、当時絶対にないと言い切れません。また戦前の民俗学者柳田国男(やなぎだくにお)によれば、宮崎や愛媛の古い風習として遺体を納棺する際に死者の持ち物を入れた袋に近親者の爪を入れる習わしがあるとのことです。

 

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ガンバレ徳川

 

 

寺院墓地は戦国時代に始まった?

月照(坊主)

 

応仁(おうにん)の乱以降の戦国時代になってから始まったことで、現在に通じる出来事がありました。それは寺院の境内に墓地を設け始めたこと。

 

鎌倉仏像(仏教)

 

戦国時代の頃から武士を中心に、仏教の思想や祖先に対する祭祀がより活発になります。その結果大名たちは領内の菩提寺を決めてそこで葬儀を行うようになりました。

 

その際に追加の要望が出てきます。「できれば寺院の本堂近くに墓を立てることはできないか?そうすれば追善供養(ついぜんくよう)を受けることができる」というものです。

 

この動きがきっかけで、それまでと違って寺院内に墓を霊園ができ、敷地内に墓が立つようになりました。ただいわゆる「墓石」が一般化したのは江戸時代以降の風習です。戦国時代の遺骨はお棺に入れた後、そのまま土の中に埋めるだけでした。

 

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キリスト教禁令が、現代に通ずる葬儀の原型を作った?

バテレン追放令を発令した豊臣秀吉

 

現在の葬儀の場合、多くは檀家制度によって、先祖とかかわりのある宗派の葬儀を執り行うのが一般的。宗教の自由が憲法で保障されているのに、この制度が根強く残っているのは、元を正せば、戦国時代に入ってきたキリスト教が影響しています。

 

セミナリオ(教会)

 

戦国時代後期にフランシスコ・ザビエルが初めてキリスト教を日本に伝えると、長い戦乱の影響で、魂の救いを求めていた庶民たちから一気に受け入れられました。

 

さらに九州の大名たちを中心に南蛮貿易を目的として改宗したり、大名並みに軍隊をもって君臨していた比叡山(ひえいざん)や本願寺に対抗させるべく信長が保護したりしたことも大きく影響します。

 

ところが秀吉以降、急激に広まったキリスト教への危機感が高まり、順次禁止令が出て、江戸時代の鎖国をもってキリスト教は完全に禁教となります。その結果キリスト教に入らないように半ば強制的に庶民を仏教徒にしたのが檀家制度。これにより現在の葬式の形態が形成されていきました。

 

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47都道府県戦国時代

 

 

火葬は古代からあり戦国時代には広まっていた?

釈迦 仏教

 

現在の葬儀で遺体の処理方法は、法律で原則火葬と決まっています。火葬の風習は日本では明治以降に定着し、それ以前の江戸時代では土葬が主流でした。

 

しかし意外にも火葬は仏教の荼毘(だび)()すという意味があるため、仏教が伝来した古代から主に高貴な人の間で行われています。中世以降は高級な葬送方法として武家社会にも広がっており、戦国時代の頃には、主に大名間では広まっていた記録が残っています。資料によれば土葬との比率が半々だったとも。

 

ところが江戸時代には儒教思想の影響で急激に火葬が廃れていきます。代わりに江戸時代に火あぶりの刑が広まりました。

 

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はじめての明治時代

 

 

戦国時代ライターSoyokazeの独り言

soyokaze(ライター)

 

戦国時代の葬儀は方法としては現在と大きな違いがないと伝わります。また明治時代までの喪服は白衣とか、庶民はもっと質素な葬儀だったなど細かい点では違います。その中でも戦国時代らしい戦国大名やその家族の葬儀スタイルが記録に残っていることは非常に興味深く感じました。

 

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三国志とりかへばや物語

 

 

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Soyokaze

旧石器から現代史、日本、中国、西洋とどの歴史にも興味があります。小学生のころから歴史に興味があり、歴史上の偉人伝を呼んだり、NHKの大河ドラマを見たりして歴史に興味を持ちます。日本のあらゆる歴史に興味を持ち、旧石器や縄文・神話の時代から戦後の日本までどの時代も対応可能。また中国の通史を一通り読み西洋や東南アジア、南米に至るまで世界の歴史に興味があります。最近は、行く機会の多いもののまだあまり知られていない東南アジア諸国の歴史にはまっています。勝者が歴史を書くので、歴史上悪役とされた敗者・人物は本当は悪者では無いと言ったところに興味を持っています。
【好きな歴史人物】
蘇我入鹿、明智光秀、石田三成、柳沢吉保、田沼意次(一般的に悪役になっている人たち)、溥儀、陳国峻(ベトナムの将軍)、タークシン(タイの大王)

-戦国時代, 雑学(戦国時代)