NHK大河ドラマどうする家康14話「金ヶ崎でどうする?」では、織田信長が妹のお市を嫁がせた義弟浅井長政が裏切り、信長が窮地に陥る金ヶ崎の戦いが描かれます。しかし、不思議な事に浅井長政がどうして信長を裏切ったのかは現在でも分かっていないようです。そこで今回は、長政が信長を裏切った理由を4つ紹介しましょう。
朝倉との同盟を重視した説
浅井長政が織田家との婚姻関係よりも、越前朝倉氏との同盟関係を取ったとする説です。一番ポピュラーな説ですが、浅井氏と朝倉氏には、長政の父である浅井久政の時代まで、同盟関係は見当たらないのだそうです。
ただし、長政の時代になり、南近江六角氏と対抗するために、朝倉氏に従属した可能性はあるそうで、それだと長政が信長を裏切る理由にはなります。しかし、そうだとしても織田軍を主力とする幕府軍が攻めたのは越前ではなく、若狭国の武藤氏であり、朝倉軍は武藤氏の援軍に出たので交戦国になったに過ぎず、朝倉救援のために長政が動いたとする説には疑問が残ります。
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元々織田家と同盟関係になかった説
信長と長政の間には、元々軍事同盟などなく、浅井長政には裏切っている感覚はなかったとする説もあります。金ヶ崎の戦いでは、朝倉義景と浅井長政が呼応して幕府軍を上下で挟み撃ちにしたというのが定説ですが、信長が毛利氏に送った書状では、金ヶ崎を落して京都に凱旋する途中に長政謀反の知らせを聞いたと書いていて、これが正しければ朝倉と浅井の間には挟撃作戦自体が存在しなかったという事です。
実際、金ヶ崎の戦いは幕府軍の負け戦とはいえ、撤退は整然とおこなわれ乱れた様子はなく、3万の幕府軍で損害は1300人余りと挟撃されたにしては、少ない損害でした。
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足利義昭と朝倉義景の板挟みになった説
浅井長政が足利義昭と朝倉義景の板挟みになった説もあります。
足利義昭が上洛した当時、義昭と朝倉義景の間には、若狭武田氏の再興を巡り確執がありました。義昭は名門である若狭武田氏を再興させるつもりでしたが、当時、若狭を支配下において、当主の武田元明を傀儡にしていた義景にとっては、義昭の提案は受け入れられないものでした。
結局、義昭は織田信長と諸大名に命じて幕府軍を編成し若狭を朝倉の勢力から切り離そうと3万の大軍を派遣します。一方の義景も若狭の朝倉勢力である武藤氏救援の兵を出しました。この中で浅井長政は義兄である織田信長に従い朝倉攻めに参加するか、朝倉との関係を重視して足利義昭を裏切るか?の板挟みとなり、結果として信長を裏切ったわけです。
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馴れ馴れしい信長にキレた説
逆に政治的な理由ではなく、信長のなれなれしい態度に長政がキレた説もあります。信長は最初、美濃斎藤氏を牽制する目的もあり、浅井長政と結んだので、お市の輿入れ費用を全て自分が持つなど、長政を特別に優遇しました。
しかし、信長が美濃斎藤氏を滅ぼして上洛を果たすと、浅井氏の重要性が低下。毛利元就に送った書状の中では長政を自身の部下として紹介したり、御所の修築の仕事では、浅井氏を元々の主家である京極氏の家来として記録するなど、長政のプライドを傷つける文書が増えていきます。こうした雑な扱いに長政が耐えきれなくなり、信長からの独立を目指して朝倉氏に与したという可能性もあるのです。
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日本史ライターkawausoの独り言
金ヶ崎の戦いは、信長の義弟である浅井長政の劇的な裏切りや、朝倉氏と浅井で幕府軍を挟撃する等、劇的要素が多い事から、映画やドラマで繰り返し描かれ、疑いようがない真実のように思ってしまいますが、史実では長政が裏切ったのか?という事すらハッキリしないんですね。今夜のどうする家康では、長政の裏切りがどのように描かれるのか?楽しみです。
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