NHK大河ドラマ「光る君へ」では、身内びいきを尽くした藤原道隆が病死し、次に弟の道兼が関白に任命されます。しかし、道兼も疫病に倒れ、藤原氏長者の地位を巡り、道隆の嫡男の伊周と弟の道長で凄まじい権力闘争が起こります。しかし、道長にはある弱点があり、そのため、必ずしも伊周を邪険にできない理由もありました。
長徳の変で伊周を失脚させるが…
道長と伊周の権力闘争は、一条天皇の生母で道長の姉である東三条院が道隆の独裁を嫌い、道長の権力継承に好意的だった点と、何よりも伊周が花山法皇に自分の愛人を寝取られたと勘違いし法皇に矢を射かけた長徳の変により、道長の圧勝に終わります。しかし、道長は一度左遷した伊周を呼び戻し正二位准大臣の待遇に引き上げます。これは、どうしてなのでしょうか?
一条天皇に嫁いだ彰子に男子が生まれない
道長は政敵の伊周を都に呼び戻した最大の理由は、一条天皇に嫁がせた娘の彰子が中々懐妊しないせいでした。一方で道長の兄、道隆の娘である定子には一条天皇との間に敦康親王が誕生していました。もし、このまま彰子と一条天皇の間に男子が誕生しなければ、皇位はゆくゆくは敦康親王の手に移る可能性が高く、その際には敦康親王の伯父にあたる伊周の存在を無視できなくなるからです。
結婚十年で彰子に男子誕生
この道長の弱みに伊周もちゃっかり便乗します。表面上は道長に従うそぶりを見せつつ、一発逆転をうかがうのです。こうして彰子が懐妊しないまま十年近くが経過すると、朝廷では彰子を見限り、伊周に近づく貴族たちが増加。夜中の伊周邸は貴族たちでにぎわい、さながら内裏のようでした。ところが、伊周の目論みは彰子の妊娠と男子誕生で完全に崩れ去りました。
道長、敦康親王に圧力をかけ皇太子を辞退させる
実の孫が生まれた瞬間、道長の敦康親王への態度は豹変します。一条天皇が崩御した後、次の三条天皇は皇太子として敦康親王を指名しようとしますが、道長は敦康親王に無言の圧力を掛けて辞退させました。分かりやすい変わり身ですが、娘を天皇に嫁がせて、男子を産ませ、その子を天皇に即位させる黄金パターンを確立した道長にとって、兄の血を引く親王は邪魔でしかなかったのです。
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