清原元輔の生涯とは?日本史に刻まれた驚異の功績に迫る

29/04/2024


 

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清原元輔 光る君へ 平安時代

 

NHK大河ドラマ「光る君へ」で清少納言の父として登場したのが清原元輔です。

 

kawauso編集長

 

 

ドラマでは出番が少ないこともあり、謹厳実直で面白味がない、いかにも学者然とした姿で描かれていましたが、史実の元輔は冗談が好きで、絶えず人を笑わせるような事を考えていたと評されるなど剽軽な一面を持つ人でした。一方で和歌の達人でもあり、梨壺の五人と称され、勅撰和歌集を編纂したり、万葉集の訓読作業に当たるなど文化的な功績を残しています。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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清原元輔は何をした人?

Changan(長安)

 

 

清原元輔(きよhらのもとすけ)は、延喜8年(908年)に誕生した平安時代中期の貴族で歌人です。梨壺(なしつぼ)の五人と評される優れた歌人の1人で、村上天皇の勅撰和歌集選集(ちょくせんわかしゅう・せんしゅう)の命令を受け撰和歌所寄人(せんわかしょ・よりうど)に任ぜられ、万葉集の訓読作業(くんどくさぎょう)後撰和歌集(ごせんわかしゅう)の編纂に当たりました。

 

しかし歌人としての名声に比較すると朝廷での昇進はとても遅く、62歳にしてようやく従五位下(じゅごいのげ)河内権守(かわちごんのかみ)に叙任され、その後、周防守受領(すおうのかみ・ずりょう)を経て79歳の高齢で肥後守(ひごのかみ)に任じられ受領として九州に赴き、永祚(えいそ)2年(990年)肥後国で在任中に体調を崩し83歳で亡くなりました。

 

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清少納言 女性

 

NHK大河ドラマ「光る君へ」で清少納言(せいしょうなごん)を演じているのは、タレントのファーストサマーウイカさんです。大阪の京橋に生まれ、中学時代に吹奏楽部で打楽器を担当したことをきっかけにドラムを始め、高校時代はロックバンドを組んで活動していました。高校卒業後は、声優を目指して専門学校へ通うも一年で退学。

 

その後、バンド以外の活動を模索し、「大阪+劇団」と検索し上位に表示された劇団のオーディションに応募を重ね、劇団レトルト内閣に入団して女優デビューし以後は本名の「初夏(ういか)」で活動を開始。以後、派遣OLやアルバイトで生活費を稼ぎつつ、勤務を定時で終えて稽古場へ向かい、関西を中心に東京へ遠征するなど小劇場の舞台で経験を積み、2013年に上京。女性アイドルグループ、BiSに加入して芸名をファーストサマーウイカに変えました。2019年「女が女に怒る夜」のバラエティーオーディションを受けて合格し出演、ここから人気に火がつきます。NHK大河ドラマは「光る君へ」が初出演です。

 

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清原元輔の父親は誰?

鶴岡八幡宮 建物 モブ

 

 

清原元輔の父は、清原春光(きよはらのはるみつ)とされています。春光は従五位下で下総守(かずさのかみ)に叙任された中級貴族です。また一部の系図には春光の名前がなく、元輔の父を祖父の清原深養父(きよはらのふかやぶ)とするものもあります。

 

清原深養父も元輔同様に歌人で、内匠少允(ないしょうしょういん)内蔵大允(くらのだいいん)等を歴任し延長8年(930年)従五位下に叙せられています。深養父は、古今和歌集以下の勅撰和歌集に41首が入選していて、同時代の藤原兼輔(ふじわらのかねすけ)紀貫之(きのつらゆき)凡河内躬恒(おおしこうちの・みつね)などの歌人と交流がありました。琴の名手でもあり、後撰集には清原深養父が琴を弾くのを聴きながら、藤原兼輔と紀貫之が詠んだ歌が収められています。

 

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清原元輔の功績

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清原元輔の功績は、歌人として優れた梨壺の五人、紀時文(きのときぶみ)大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)源順(みなもとのしたごう)坂上望城(さかのうえのもちき)等と共に、村上天皇の勅撰和歌集選集の命令を受け撰和歌所寄人として、万葉集の訓読作業や後撰和歌集の編纂に当たった事が挙げられます。

 

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清原元輔が果たした役割とは

kawauso編集長

 

 

清原元輔は、歌人として高名なだけではなく、その名声を使って、藤原北家小野宮流(ふじわらほっけ・おののみやりゅう)藤原実頼(ふじわらのさねより)頼忠(よりただ)実資(さねすけ)の屋敷に出入りして儀礼として歌を詠んだそうで、その数は20首を越えています。これら高級貴族の屋敷に出入りする際には、相応の贈物を受けたと考えられ、また句会では、多くの情報交換もあったと考えられるので元輔は和歌の才能を実利面でも活用したようです。

 

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梨壺の五人とは?

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「梨壺の五人」とは、清原元輔。紀時文、大中臣能宣、源順、坂上望城の五人を意味します。梨壺とは、平安京内裏(だいり)の五舎の一つ「昭陽舎(しょうしょうしゃ)」の事で、その中庭に梨の木が植えてあった事から梨壺とされました。梨壺の五人は「万葉集」を現行の20巻本の形に整え、訓点打ちの作業を施したり、村上天皇の命令による「後撰集」の編纂をしています。

 

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清原元輔の人柄

 

清原元輔は高名な歌人でありながら、世慣れた人物でその逸話にはユーモラスなものが多く残っています。ある時、元輔が賀茂祭(かもさい)奉幣使(ほうへいし)を務めた時の事、元輔は運悪く落馬し、烏帽子(えぼし)が滑り落ちて頭が露わになってしまった事がありました。当時の社会では四六時中烏帽子をかぶって頭髪を見せない事がマナーとされ、多くの人々は(こうがい)で髷と烏帽子を固定していました。

 

しかし、元輔は禿げていたので、烏帽子を固定する事が出来ず、落馬の衝撃で烏帽子が取れてしまったのです。元輔の見事な禿げ頭に周囲は大笑いしましたが、元輔は烏帽子を拾おうともせず、通りがかる物見車の一台、一台に古今東西の落馬により烏帽子が落ちた人々の話をして自己弁護に努めました。その必死な自己弁護を聞いて、人々は再び大笑いしたという事です。元々、元輔は身の回りの出来事を面白おかしく解釈して聞かせるのが好きな人物だったらしく、その才能は娘の清少納言のエッセイである枕草子にも影響を与えているのかも知れません。

 

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百人一首の契りきなの意味は

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清原元輔には百人一首にも選ばれた。(ちぎ)りきな、かたみに袖をしぼりつつ、(すえ)松山(まつやま)波越(なみこ)さじとはという和歌を詠んでいます。

 

これは女性にふられた男性が詠んだ失恋の和歌で、意味は「誓ったではないか?涙で濡れた袖を絞りながら、末の松山を津波が越さない限り決して離れないと、あれは嘘だったのか?」です。どうやら元輔にはWANDSの名曲「世界が終わるまでは」のように涙を流しながら永遠の愛を誓った恋人がいたようですが、その恋人は元輔への愛が醒めて別の男性の所へ行ってしまったようです。和歌には女性が男性に冷たくされた事を嘆いたり、恨んだりする歌が多いですが、元輔の歌は珍しく男性が女性に恨み言を述べているケースになっています。

 

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清原元輔の位

 

清原元輔の位は従五位上で官位は肥後守でした。当時、朝廷に仕える歌人は、例え収入が少なくても京都で天皇に仕える事をプライドとする人が多く、地方に下りていき受領になる事を嫌う人もいました。しかし、元輔に、そんな様子はなく高齢になってからも周防や肥後の受領として地方に赴任し、銭を鋳造したり、薬師寺の廓を造営するなど実務にも携わって汗を流し、それらの功績で従五位上の位を得ています。元輔は世慣れた人であり、歌人のプライドに拘って貧乏するより、地方に出て行って手柄を挙げ受領として、富を蓄えた方が良いと割り切っていたのかも知れませんね。

 

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清原元輔の死因

 

清原元輔は当時としてはかなりの長寿である83歳で亡くなりました。そのため死因は老衰と考えられます。しかし、元輔は79歳の高齢で都から九州の肥後まで受領として赴任している事から、気候風土や水が合わず、また長旅のストレスや都から遠く離れている心理的な寂しさもあって寿命を縮めた可能性もあります。高齢の元輔が苦労が多い地方の受領に志願した理由は、息子達の昇進が思ったように進まず、家計が楽ではなかったからという説もあります。

 

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清原元輔の子孫

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清原元輔の子孫として一番有名なのは清少納言です。彼女は一条天皇の中宮である定子(ていし)に仕え、宮中の女房として枕草子を執筆しました。清少納言は橘則光(たちばなののりみつ)、そして藤原棟世(ふじわらのむねよ)と結婚し則光との間に橘則長(たちばなののりなが)、藤原棟世との間に上東門院小馬命婦(じょうとうもんいんこまのみょうぶ)の一男一女を儲けました。

 

橘則長は「後拾遺和歌集(ごしゅういわかしゅう)」に3首「新続古今和歌集(しんぞくこきんわかしゅう)」に1首が入るなど歌人として名を遺し、上東門院小馬命婦は、後拾遺和歌集に1首が選ばれています。元輔には為成(ためなり)致信(むねのぶ)戒秀(かいしゅう)正高(まさたか)4人の男子がいますが、清原為成については詳しい事は不明、清原致信は、藤原道長に仕えた武人、藤原保昌(ふじわらのやすまさ)の郎党として大宰少監(だざいのしょうげん)を勤めていましたが、大和国の利権を巡る対立に巻き込まれ、源頼親(みなもとのよりちか)に殺害されました。戒秀は比叡山延暦寺の僧侶で、花山天皇に召され殿上僧として活躍しましたが雷の直撃を受けて感電死しています。清原正高は、豊後介(ぶんごのすけ)として地方に赴任して土着、豊後清原氏の祖と呼ばれます。

 

 

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清原元輔の家系図

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清原元輔の出身母体である清原氏は、8世紀末から9世紀後半にかけて臣籍降下した100人以上の皇族に与えられた姓です。皇別清原氏には天武天皇の皇子だった舎人親王の後胤が多く、特に天武五世孫の清原有雄(きよはらのありお)(有雄王)を氏祖とする一流が著名です。この系統からは、中古三十六歌仙の一人清原深養父や孫である清原元輔、元輔の娘で女流作家である清少納言が出ました。

 

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清原深養父の孫は誰?

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清原深養父の孫は、清原元輔と言われています。しかし、一部の家系図では元輔の父である春光の名前がなく、深養父と元輔が親子であると記しているものもあります。

 

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清原深養父は何をした人?

 

 

清原深養父(きよはらのふかやぶ)は、平安時代中期の貴族で歌人です。勅撰歌人「古今和歌集」などの勅撰和歌集に41首が入集している著名な人物で藤原兼輔や紀貫之・凡河内躬恒等の歌人と交流がありました。また琴の名手であり、「後撰集」には清原深養父が琴を弾き、友人の藤原兼輔と紀貫之が詠んだという歌が収められています。

 

小倉百人一首の36番に選ばれていますが、藤原公任の三十六歌仙に選ばれなかった事もあり、平安末期まで秀歌の扱いを受けませんでした。その後、藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい)藤原清輔(ふじわらのきよすけ)の目に留まり再評価され、中古三十六歌仙(ちゅうこさんじゅうろくかせん)の一人に選ばれています。貴族としては、あまり出世せず従五位下で終わりました。

 

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まとめ

kawauso編集長

 

今回は清原元輔の生涯と功績について書いてみました。元輔は高名な歌人でしたが、歌人としてのプライドに固執する事無く、地方に受領として赴任し実務をこなし蓄財に励むなど世慣れた人でした。清輔は祖父に藤原深養父、子に清少納言と著名な歌人を持ち、3人がそれぞれ小倉百人一首に歌が残るなど文化的教養に満ちた一族でもあります。

 

 

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