鎌倉幕府を倒し新しい時代を切り開こうとした護良親王。その才能とカリスマ性は人々を惹きつけ、多くの支持を集めますが、才能の行きつく先が招いたのは裏切りと嫉妬でした。若くして殺された悲劇の皇子の生涯を解説します。
この記事の目次
- 護良親王とは誰か
- 護良親王の生誕と家系
- 読み方と本名の由来
- 幼少期のエピソード
- 護良親王の主な活動
- 元弘の乱以前の動向
- 元弘の乱と護良親王の役割
- 笠置山の戦い
- 般若寺での潜伏
- 建武の新政における護良親王
- 征夷大将軍への就任
- 後醍醐天皇との関係
- 政権内での軋轢と失脚
- 鎌倉での監禁生活
- 最期と伝説
- 護良親王の最期
- 首の行方とその信憑性
- ミイラ化された生首の謎
- 怨霊伝説とその影響
- 楠木正成との連携
- 足利尊氏との対立
- 歴史学的評価
- 文化遺産と伝説
- 鎌倉宮と墓所
- 子孫とその影響
- メディアと護良親王
- 大河ドラマでの描写
- 漫画「逃げ上手の若君」と護良親王
- 大塔宮護良親王は最後にどうなったのか?
- 後醍醐天皇と護良親王の関係は?
- 護良親王は何をした人ですか?
- 護良親王を殺したのは誰ですか?
- 護良親王の最期は?
- 世良親王の読み方は?
- 大河ドラマ「太平記」で新田義貞役を演じたのは誰?
- 吉野に逃れた天皇は誰ですか?
- 南北朝時代最強の武将は誰ですか?
- kawauso編集長の独り言
護良親王とは誰か
護良親王は、鎌倉時代末期から建武の新政期に活躍した皇族武将です。通称は大塔宮で一般に後醍醐天皇の第三皇子とされています。父である後醍醐天皇の倒幕運動に従い、元弘の乱で主たる功績を挙げた事で建武の新政では征夷大将軍に就任します。しかし護良親王は足利尊氏とは不仲で、尊氏を信頼する後醍醐天皇との関係も悪化、やがて将軍を解任され鎌倉に幽閉されました。
その後、中先代の乱が起きると、反後醍醐天皇の勢力に利用される事を恐れた足利直義により暗殺されました。
護良親王の生誕と家系
護良親王は、一般に後醍醐天皇の第三皇子とされますが、第一皇子という説もあります。南北朝期の歴史書「増鏡」によれば、生母は民部卿三位と呼ばれ、北畠師親の娘の資子という説や勘解由小路経光の娘の経子という説があります。民部卿三位の家柄は低く、そのため護良親王は、当初から皇位継承レースからは外れ、6歳の頃、天台宗三門跡の一つ、梶井門跡に入りました。
読み方と本名の由来
護良(もりよし)親王は、もりなが親王とも読みます。後醍醐天皇は自身の皇子に全て、良の一字を入れていて、世良親王や、奈良親王、宗良親王、恒良親王、義良親王、懐良親王などがいます。また、名前の由来については定かな事は分かりませんが、父である後醍醐天皇を身代わりとなって護り、倒幕に命を懸けた護良親王は、護の字に相応しい人生を送ったと言えるかも知れません。
幼少期のエピソード
護良親王は、幼少期から一を聞いて十を知るような聡明な人物として知られ、比叡山に入ると、たちまち衆徒の信頼を集め、20歳で天台座主の地位に就任し尊雲法親王と名乗りました。
護良親王の主な活動
護良親王の主な活動は、後醍醐天皇の身柄を幕府の追求から隠しつつ、自身は楠木正成のような味方のゲリラ勢力と連携して、鎌倉幕府倒幕を呼び掛ける令旨を全国の寺社や北条氏の政治に不満を持つ武士勢力に届ける事でした。
特に元弘の乱に失敗した後醍醐天皇が隠岐に流されると逃げ延びた護良親王は、動けない天皇に代わって吉野で蜂起し、何度も鎌倉幕府の追手に捕まりそうになりながら、河内の楠木正成と連動。鎌倉幕府の軍勢と戦い続けつつ、天皇の代理として九州の原田氏や阿蘇氏、東国の新田氏に令旨を送り続けて倒幕を呼びかけました。
鎌倉幕府が倒れた後は、征夷大将軍、兵部卿となります。護良親王は足利尊氏を警戒し後醍醐天皇にも度々、注意を促していましたが、後醍醐天皇は、有能な護良親王に脅威を感じ、その勢力を削ぐ方向に舵を切っていました。こうして尊氏と後醍醐天皇は護良親王を排除する事で利害が一致。親王は征夷大将軍の任を解かれて鎌倉に送られ幽閉されています。
元弘の乱以前の動向
護良親王は17歳で門跡を継承して門主となります。そして父である後醍醐天皇の画策で1327年12月から1329年2月までと、同年12月から1330年4月までの2度に渡り、天台座主となりました。これは後醍醐天皇が倒幕を意図して護良親王に比叡山の僧兵勢力を率いさせる狙いがあったと考えられます。仏門だけではなく親王としても二品に昇叙し、後醍醐天皇の手助けが可能なように着々と準備が進められています。
元弘の乱と護良親王の役割
元弘元年(1331年)8月に後醍醐天皇は二度目の倒幕を企てますが、側近の吉田定房が幕府に計画を密告。結果、幕府が調査を開始。関係者への尋問や拷問で護良親王と後醍醐天皇の関与が明らかとなり逮捕に動き出しました。この頃、大塔宮・尊雲法親王と名乗っていた護良親王は、後醍醐天皇を東大寺に隠す手立てをしますが、六波羅探題の手勢が東大寺に入っている事を知ると身代わりに花山院師賢を比叡山延暦寺に上らせます。そして、八瀬童子を使って後醍醐天皇を笠置山に昇らせ密かに行宮を設けました。このように元弘の乱では、護良親王は後醍醐天皇を笠置山に移して逃がす事に力を尽くしました。
笠置山の戦い
1331年9月2日後醍醐天皇が笠置山に昇ったことが鎌倉幕府に知られ、笠置山は六波羅探題の幕府軍に包囲されました。後醍醐天皇の行宮には火が放たれ、天皇はあぶり出される形で幕府軍に囚われ平等院に一時幽閉され、次に隠岐の島に流されます。護良親王は山城国鷲峰山で後醍醐と合流していましたが、幕府の攻撃が始まる前に尊良親王と共に楠木正成の舘へ移動し危機を回避します。以後、護良親王は各地を潜伏しながら帝の代わりに令旨を発して反幕勢力を募りました。
般若寺での潜伏
元弘の乱の失敗後、護良親王は般若寺に潜伏します。その事を聞いた興福寺一乗院の按察法眼好専は五百騎の兵を率いて般若寺の探索にやってきました。この事を知った護良親王は本堂にあった大般若経の空の経箱に身を隠します。そこに探索の兵が入り込んで経箱をひっくり返して調べますが、偶然、護良親王が隠れた経箱は暴かれませんでした。
兵士たちは帰ろうとしますが、途中で兵の一人がもう一つ調べていない経箱がある事に気が付き、急いで数名の兵士と本堂に戻ります。護良親王は気配を察知、最初に兵士たちが調べた経箱に移動して潜伏します。兵は調べていなかった経箱をひっくり返して調べますが、やはり親王は居ないので般若寺を去りました。護良親王は咄嗟の機転で命拾いしました。
建武の新政における護良親王
護良親王は建武政権の中でも絶えず尊氏らを警戒し、縁戚関係にある北畠親房と共に、東北地方支配を目的に、北畠顕家を東北に派遣して、義良親王を補佐させ陸奥将軍府を開かせる事を後醍醐天皇に上奏して認められています。しかし、後醍醐天皇自身、隠岐に流されている間、自身の代理として倒幕を推し進めて手柄を立てた護良親王を疎ましく思っていて、護良親王には政治の主導権を与えず、権限を縮小するように動いていました。
征夷大将軍への就任
後醍醐天皇により開始された建武の新政で、護良親王は征夷大将軍及び兵部卿に任じられ、信貴山を出て上洛します。親王は征夷大将軍に任命される前から将軍宮と名乗っていましたが、その理由は護良親王の支持基盤が悪党や流人くらいしかいないので、征夷大将軍の肩書を利用して全国の武士勢力を集めようとしていたようです。
後醍醐天皇は倒幕で功績を挙げた護良親王の勢力が強くなり自身を上回る事を恐れていましたが、だからと言って、もう1人の功労者である足利尊氏を征夷大将軍に任命すると、幕府が復活してしまう事を恐れていたので、親王の征夷大将軍就任を認めました。ただし、同時に後醍醐天皇は御家人制を廃止して、征夷大将軍の実質的な権力を制限しています。
後醍醐天皇との関係
護良親王は後醍醐天皇と共に倒幕運動に身を投じました。その中では自分を危険にさらしても後醍醐天皇を幕府の追跡から隠すと共に、元弘の乱に敗れた後醍醐天皇が隠岐に流されると、天皇の代理として潜伏を繰り返しながら、全国の武士勢力へ倒幕の令旨を送り続け、同時に千早城に籠城する楠木正成と連携しつつ、京都の六波羅軍と戦い続けています。
護良親王の尽力が無ければ、倒幕の機運は盛り上がらず、後醍醐天皇が隠岐を脱出する機会も無かったでしょう。しかし倒幕後、後醍醐天皇は自身を上回る名声を獲得した護良親王が邪魔になり、遂には足利尊氏や寵后の阿野廉子の讒言に従い、護良親王の権力を剥奪して鎌倉に幽閉し、中先代の乱が起きると護良親王が北条時行に味方するかも知れないと疑い、暗殺してしまいます。護良親王は足利尊氏を恨みはしましたが、それでも、父である後醍醐天皇を恨む事はなかったようです。
政権内での軋轢と失脚
護良親王と足利尊氏は激しく対立していましたが、尊氏以外にも護良親王を疎ましく感じていたのが後醍醐天皇の寵后、阿野廉子でした。廉子には後醍醐天皇との間に義良親王が生まれていて、名声がある護良親王が邪魔だったのです。尊氏と廉子は手を組み、廉子は後醍醐天皇に讒言を吹きこんで、護良親王の勢力を削ぐように勧めます。こうして護良親王の立場は不安定となり、進退窮まった護良親王は尊氏の野心を指摘し、後醍醐天皇に追討の勅語を発することを願うも、受け入れられませんでした。
「太平記」では尊氏暗殺のために配下の僧兵を集めたものの暗殺は失敗。朝廷は護良親王と仲が良かった楠木正成を遠ざけるため、北条残党の反乱や、新政に不満を持つ大和・摂津・紀伊等の武士団の鎮圧を命じて京都から遠ざけた上で、護良親王が皇位簒奪を企てたとして征夷大将軍を解任。上意を受けた名和長年、結城親光らによって親王は捕らえられ、鎌倉の足利直義の監視下に置かれ土牢に幽閉されました。
鎌倉での監禁生活
護良親王は、東光寺の敷地内の辻で出来た牢獄に幽閉されたと言われています。仮にも親王ですから食事や牢内の衛生には気を配ったでしょうが、護良親王が土牢から出る事は許されなかったようです。10ヶ月、土牢に幽閉されている間、ろくろく運動も出来なかった護良親王の体力は衰えていきました。
最期と伝説
護良親王の最後は「太平記」では以下のように凄惨かつドラマチックに描かれています。直義より親王を殺せと命じられた淵辺義博は、土牢の中で護良親王を組み伏せて太刀で喉元を刺そうとします。幽閉されて体力が衰えていた親王ですが、首を縮めて剣先をくわえると歯で噛み折りました。
格闘の末に淵辺義博はようやく親王の首を取りますが、暗い土牢を出て月あかりで首を照らすと、護良親王は両眼を見開き、歯には刀の先をくわえたまま絶命していました。淵辺は恐ろしくなり竹藪に首を投げ捨てたと伝わります。
護良親王の最期
建武2年(1335年)信濃で執権北条高時の遺児、北条時行を奉じた諏訪頼重や滋野氏が蜂起した中先代の乱が勃発します。北条軍は木曽家村に破れて、諏訪頼重が自害する事になりますが、次第に周辺の北条氏残党も立ち上がり、鎌倉の陥落は逃れられなくなります。
護良親王が北条氏に担がれる事を恐れた足利直義は配下の淵辺義博に親王の暗殺を命じ、護良親王は28歳で殺害されました。護良親王の首は、側室である藤原保藤の娘の南方に弔われたと伝えられ、この南方と護良親王との間には鎌倉の妙法寺を開いた日叡が生まれ後に父母の菩提を弔ったとされています。
首の行方とその信憑性
護良親王の首については、以下のような言い伝えもあります。親王が死んだ時、愛人だった雛鶴姫はすでに親王の子をお腹に宿していました。姫は親王が殺された事を知ると、いてもたってもいられず、大きなお腹を引きずり、淵辺義博が竹藪に捨てた親王の首を拾い「せめて故郷の京へ帰してあげよう」と箱に詰めて胸に抱くとわずかな供を連れ決死の逃避行をはじめました。追手に見つからないように大きな街道は避け、険しい道をつたって甲斐国へ向かい、そこから京へと向かおうとします。
雛鶴姫は、相模から甲斐の入り口である秋山無生野まで来たところで、急に産気づき出産。しかし、寒さを防ぐ術もないまま、雛鶴姫も皇子も亡くなってしまったという事です。残された家臣はこの地に留まり、護良親王や雛鶴姫、皇子の御霊を供養しました。やがて、その地は雛鶴峠と呼ばれるようになり、近隣の村では姫たちを祀った雛鶴神社を創建したと言い伝えられています。
ミイラ化された生首の謎
また、護良親王の首については、家臣の松木宗光らが富士吉田の小室浅間神社に納め、神宝として祀られたと言う話もあります。しかし、足利尊氏らが護良親王の首を奪いにくる恐れがあったので、探索から逃れるため、親王の首は石舩神社の近くに隠され、それから300年後、江戸時代に石舩神社が再建された際、護良親王の頭蓋骨に漆を塗り、目には水晶を嵌めて生きているかのように顔を復元し御神体とし祀られるようになったそうです。
現在でも、山梨県都留市盛里の石舩神社には、複顔術を施した護良親王のものとされる首が残っています。但し、最初は頭蓋骨だった護良親王の首にどうして漆が塗られ顔が復元されたのか?それが、どうして親王の死後、300年も経過した江戸時代だったのか?詳しい経緯は全く不明です。
怨霊伝説とその影響
護良親王が怨霊になったと言う伝承はありませんが、太平記では壮絶な死に方をした護良親王が天狗に姿を変えて、足利一門に祟りを為したとされています。確かに護良親王を殺害を命じた足利直義と護良親王を失脚に追い込んだ足利尊氏は、後の観応の擾乱では敵同士となり骨肉の争いを繰り広げ、直義は急死する事になりましたが、そのために室町幕府が崩壊したわけではなく戦国時代中期まで15代も継続する事から、これは後世の人の後付けであると考えられます。
楠木正成との連携
護良親王は楠木正成と仲が良かったようです。2人は倒幕運動初期からの同志であり、笠置山の戦いで後醍醐天皇が幕府に捕まった時には、護良親王は楠木正成の屋敷に一時匿われていました。正成の手勢は悪党や流人であり、数は少ないもののゲリラ戦や情報戦に長けていて、千早城に籠城して大勢の幕府軍を足止めし、その間に護良親王が後醍醐天皇の名前で令旨を書いて全国の武士に送り、相互に連携しながら倒幕運動を勧めています。建武政権でも楠木正成は護良親王の理解者であり、朝廷は護良親王を逮捕する前に、正成が匿えないように、北条氏の残党討伐を命じて京都から引き離しています。
足利尊氏との対立
足利尊氏と護良親王は初期から対立していました。元々、建武親政は武家の北条氏から朝廷が政治を取り返す事が目的でしたが、足利尊氏は武家の棟梁である河内源氏の嫡流だったからです。そもそも尊氏は元弘の乱頃まで後醍醐天皇と敵対していて、笠置山の天皇の行宮に火を放ったのも尊氏の部下でした。
その後、尊氏は寝返りますが、護良親王は、尊氏を裏切りを好む節操がない武士と見ていて、放置しておけば建武政権を崩壊に追い込みかねないと考えていたようです。一方の尊氏も護良親王が征夷大将軍に任命され、全国の武士の頂点に立とうと考えている事を察知し、自分の邪魔になると認識していました。
歴史学的評価
護良親王の評価は太平記によるところが大きく、鎌倉幕府打倒を目指し、武勇に優れ、民衆からも慕われる英雄であると同時に幕府を倒しながらも、その後は足利尊氏や後醍醐天皇と対立し非業の死を遂げた悲劇の英雄として知られます。しかし、実際の護良親王は、出生から最後に至るまで謎が多く、近年の研究では、太平記の影響を排除して、残された文献などから、護良親王の性格や行動を多角的に分析する試みがされています。
その中では、悲劇の英雄であるだけでなく、足利尊氏に取って代わり政治を主導しようとする意思や縁戚関係だった北畠親房を通じ、義良親王を総大将に北畠顕家を補佐させて陸奥将軍府を開くなど自身の軍事力を拡張しようとした形跡も見られます。いずれにせよ、日本史の視点で考えると護良親王の暗殺で、建武政権は足利尊氏と並ぶ実力者を失い、それが尊氏の幕府創設を許し南北朝の騒乱に繋がるので、護良親王が重要なキーパーソンである事は疑いありません。
文化遺産と伝説
護良親王の文化遺産としては、神奈川県鎌倉市二階堂の理智光寺跡に宮内庁が管理する公式の墓所があります。また、明治維新後、東光寺跡に親王の霊を弔うために鎌倉宮が造られ、地元では通称「大塔宮」(だいとうのみや)と呼ばれています。また、鎌倉妙法寺にも護良親王の墓があります。横浜市戸塚区柏尾町には親王の御首を、側女が密かに持ち出し洗い清め奉じたとされる首洗い井戸があり、近隣には、その御首を地下に葬ったと伝えられる王子神社が存在します。
さらに山梨県都留市朝日馬場にある石船神社では、護良親王の首級と伝えられる首が祀られ、山梨県内ではこのほか、冨士山下宮小室浅間神社境内にある桂の大木の根本に親王の首が埋葬された言い伝えもあります。また、護良親王の乳母が親王を慕い鎌倉まで赴くも、そこで親王の最期を知って衝撃を受け、海に身を投げたとの伝承もあり、乳母の遺体は現在の横浜の野毛浦に流れ着き、海上の岩に引っ掛かって「姥岩」と呼ばれるようになり安産・子育ての神「姥姫」として祀られましたが、現在では埋め立てで「姥岩」は姿を消し「姥姫」は伊勢山皇大神宮境内の杵築宮に合祀されているそうです。
それ以外にも、宮城県石巻市の多福院には護良親王の生存伝説が残ります。伝説では、淵辺義博が護良親王を斬る事を忍びなく思い、首を竹藪に投げ捨てたと嘘の報告をした上で、海を伝って宮城県石巻に逃がした伝説で、大門崎山の麓に一皇子宮という社があり、その奥には御陵と伝えられる塚もあります。護良親王の最後と伝説から派生したこれらの神社は護良親王の事績を伝えると同時に、地域にとってかけがえない文化遺産になっています。
鎌倉宮と墓所
鎌倉宮は、明治2年2月、武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的として、建武中興に尽力した親王の功を賛えて造営され東光寺跡の現在地に社殿が造営されました。御祭神は護良親王と側室の持明院南御方、そして吉野落城の時に護良親王の身代わりとなり死んだ村上彦四郎義光です。
施設は護良親王が幽閉された土牢(復元)や、護良親王ゆかりの宝物殿、病気平癒の御利益がある村上彦四郎義光の武者像「撫で身代わり様」拝殿の正面には獅子頭守像があります。地域では鎌倉宮ではなく、大塔宮と呼ばれて親しまれています。
子孫とその影響
護良天皇には、興良親王と陸良親王という2人の親王がいたようですが、陸良親王は興良親王が改名した名前で、2人は同一人物であるようです。興良親王は、建武政権崩壊後に、祖父である後醍醐天皇に仕えて山門の指揮官を務め、やがて後醍醐天皇の養子となり親王宣下を受け、異母叔父の後村上天皇が践祚すると征夷大将軍に任命され常陸国に下向し、小田城の北畠親房に迎え入れられます。しかし、常陸国の戦況は思わしくなく1343年11月に本拠の関城や大宝城が陥落すると西に逃げます。
吉野へ戻った後は再び和泉に現れ、1348年1月の四條畷の敗戦の際、諸将を招集して善後策を講じてますが成功せず、南朝に帰順した赤松則祐に奉じられて、播磨周辺での南朝の中核勢力になりました。1352年に赤松則祐が北朝に寝返ると京都に送られて幽閉されますが、但馬の本庄氏や波多野氏ら南朝勢により救出されて高山寺城に入り、但馬と丹波両国を制します。その後、興良は山陽道に進出、摂津甲山で赤松則祐と交戦するも敗北、河内に落ち延びました。
1360年4月、興良は、南朝に帰順した赤松氏範を配下に加え北朝に内通。将軍足利義詮に通じて銀峯山で反旗を翻し、南朝の賀名生行宮を攻撃して御所宿舎を軒並み焼き払いますが、南朝方は二条前関白を大将軍としてこれに抗戦させたので、興良の兵は離散、興良も氏範により南都へ落ち延びさせられますが、その後の消息は途絶えます。興良の墓は、兵庫県姫路市香寺町須加院にある親王塚や奈良県野迫川村北股にあるなどが知られていますが、子孫などは不明です。このように護良親王の子孫は不明ですが、不明であるからこそ親王が戦った地域では、我こそは護良親王の末裔と名乗る人は多く、現在でも一定数存在します。
メディアと護良親王
護良親王について取り上げたメディアは書籍が多く、亀田俊和の「征夷大将軍護良親王」シリーズや新井孝重の「護良親王ー武家よりも君の恨めしく渡らせ給ふー」北方謙三の「楠木正成上・下」、梅谷百の携帯小説「キミノナヲ」、垣根涼介の極楽征夷大将軍等があります。ドラマでは、1991年のNHK大河「太平記」で堤大二郎が護良親王を演じています。漫画やアニメでは「逃げ上手の若君」で護良親王が登場しています。
大河ドラマでの描写
NHK大河ドラマ「太平記」における護良親王は、南北朝期の軍記物である太平記の記述を踏襲し、足利尊氏の大将としての才能を認めるがゆえに、尊氏を恐れて激しく敵視する護良親王という位置付けです。その後、尊氏との争いに敗れ鎌倉に幽閉されて後、心の平穏を取り戻しますが、運命は変えられず、中先代の乱の混乱の中で淵辺義博に斬られて亡くなる寂しい最期を迎えます。しかし、大河ドラマ太平記は、30年以上も前の作品であり、現在の護良親王の研究成果が反映されると親王の描かれ方も変化するかも知れません。
漫画「逃げ上手の若君」と護良親王
逃げ上手の若君における護良親王は、史実同様、後醍醐天皇の皇子でイケメンで武芸も達者でカリスマ性をもつ天才として描かれています。また、尊氏の野心を逸早く見抜いているのも史実と似ていますが、実力では武力もカリスマ性も軍事的な才能でも尊氏に遥かに劣り、そのために屈辱感から増々、尊氏を敵視する小者感があるキャラクターです。尊氏との権力闘争に敗れて鎌倉で幽閉された後は、尊氏の怪物の一面を見て恐怖するなど、さらに小者感が強まり、特に見せ場なく暗殺されてしまう最期を迎えます。
漫画の主人公は、北条時行なのでライバルである足利尊氏を立てる為に、護良親王をかませ犬にしているのかも知れません。
大塔宮護良親王は最後にどうなったのか?
護良天皇は足利尊氏との権力争いに敗れ、鎌倉で土牢に幽閉されました。その後10ヶ月が過ぎた建武2年(1335年)、信濃では北条高時の息子・北条時行を擁立した諏訪頼重や滋野氏が中先代の乱を起こします。北条軍は木曽氏に敗れ、諏訪頼重は自害しますが、北条氏の残党が再び立ち上がり、鎌倉は陥落の危機に直面します。足利直義は護良親王が北条側に担がれることを恐れ、家臣の淵辺義博に命じて親王を暗殺させました。護良親王は28歳でその生涯を終えました。
後醍醐天皇と護良親王の関係は?
護良親王は後醍醐天皇の第三皇子とされています。父である後醍醐天皇の倒幕運動に従い、鎌倉幕府滅亡に大きな功績を挙げた事で建武の新政で征夷大将軍に就任しました。しかし護良親王は足利尊氏とは不仲で、やがて尊氏を信頼する後醍醐天皇との関係も悪化、後醍醐天皇の命令で征夷大将軍を解任され、尊氏の弟の直義が支配する鎌倉に送られ幽閉されました。その後、中先代の乱が起きると、反後醍醐天皇の勢力に利用される事を恐れた足利直義により暗殺されますが、これは直義の独断ではなく後醍醐天皇よりの指示があったと考えられています。
護良親王は何をした人ですか?
護良親王は、鎌倉時代末期から建武の新政期に活躍した皇族武将です。父である後醍醐天皇の倒幕運動に従い、元弘の乱で主たる功績を挙げ鎌倉幕府滅亡後の建武の新政では征夷大将軍に就任します。しかし護良親王は武士の信頼が厚い足利尊氏が、いつか幕府を開こうとするに違いないと考えて敵視し、小競り合いを続けていました。そんな中で尊氏を信頼する後醍醐天皇との関係も悪化、やがて征夷大将軍を解任され鎌倉に幽閉されました。その後、中先代の乱が起きると北条氏の残党に利用される事を恐れた足利直義の命令で暗殺されました。
護良親王を殺したのは誰ですか?
護良親王を殺害したのは、足利直義の部下淵辺義博です。淵辺は護良親王が後北条氏の残党に救出されると、反後醍醐天皇のシンボルとされるかもしれないと恐れて淵辺に親王の暗殺を命じたとされています。
護良親王の最期は?
太平記によると、淵辺義博は直義の命令で、土牢の中で護良親王を組み伏せて太刀で喉元を刺して殺そうとしました。幽閉で体力が衰えていた親王ですが、必死で首を縮めて剣先をくわえると歯で噛み折って抵抗しました。淵辺義博は悪戦苦闘の末、親王の首を取りますが、護良親王は両眼を見開き、歯には刀の先をくわえたまま絶命していたそうです。
世良親王の読み方は?
世良(よよし)親王はよよし親王と読みます。あるいは、ときよし親王と読む事もあります。後醍醐天皇の第二皇子で、生母は西園寺実俊の娘、遊義門院一条局です。親王は生母の身分も高く聡明で、父の後醍醐天皇から跡継ぎとして期待をかけられていましたが、20歳前後で亡くなりました。
大河ドラマ「太平記」で新田義貞役を演じたのは誰?
大河ドラマ太平記で新田義貞を演じたのは、最初、萩原健一さんでしたが、萩原さんが真珠腫性中耳炎を患い途中降板したために、根津甚八さんが役を引き継ぎました。ドラマでの新田義貞は、足利と並ぶ源氏の嫡流にも関わらず、没落している新田の当主として、尊氏に劣等感を持つと共にライバル視し、同時に足利を優遇し新田を無視する執権北条氏に反感を抱いています。尊氏とは倒幕運動で共闘しますが、尊氏が後醍醐天皇に背いた後も朝廷側に留まり、総大将として尊氏と激闘を演じます。義貞は武勇に優れていますが軍略には乏しく、誇り高くも愚直で田舎臭い古風な武士として描かれます。
吉野に逃れた天皇は誰ですか?
吉野に逃れた天皇は後醍醐天皇です。中先代の乱後、朝敵となった足利尊氏は、北畠顕家や新田義貞の攻勢に敗れ、京都を失い九州へ落ち延びますが、光厳上皇の院宣を手にして九州で態勢を立て直し再び上洛を目指します。勢いに乗る尊氏率いる足利軍は、新田義貞と楠木正成に湊川の戦いで勝利、意気揚々と入京します。一方、敗れた後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗しますが、足利方の和睦の要請に応じて三種の神器を譲渡。尊氏は光厳上皇の院政のもとで持明院統から光明天皇を即位させ、建武式目を制定して幕府を開きます。しかし1337年、一度は廃位された後醍醐天皇は幽閉されていた花山院を脱出。尊氏に渡した神器は贋物であるとして、吉野に自らが主宰する朝廷を開き、以後、半世紀も継続する南北朝時代が幕を開けます。
南北朝時代最強の武将は誰ですか?
南北朝時代最強の武将としては、北畠顕家や楠木正成の名前があがりますが、足利尊氏の右腕として活躍した高師直もかなり強いです。合戦では足利尊氏を破った北畠顕家や楠木正行を次々に打ち倒しました。最近では、軍略だけではなく、恩賞制度の改革をして、尊氏の出した命令が下位の武士まで徹底される仕組みを造り、御家人たちの尊氏支持を繋ぎとめた事実が明らかになっています。師直は戦争最強で、かつ行政手腕も巧みだった事になり足利直義に敗れて斬首される最期を除外すれば、南北朝最強武将とされて異論のない人物でしょう。
kawauso編集長の独り言
今回は一万文字以上を執筆して護良親王について書いてみました。護良親王については、ここに執筆した部分だけでかなり分かると思います。執筆量が多いのは、護良親王の伝承や逸話の部分が多いためで、それだけ史実で分かる部分が少なく伝説に彩られた人物である事が分かりますね。
こちらもCHECK
-
諏訪頼重の生涯、北条時行最大の支援者である謎多き神官の史実の姿とは?
続きを見る