鎌倉時代の僧侶で、「遊行上人」の名で知られ、「時衆(宗)」の開祖と言われる「一遍上人」には、幾人もの優秀な弟子たちがいたようです。その中で、まず「真教(他阿)上人」が一番の弟子として知られているのですが、その他にも一遍の親族の中で弟子入りしていた者たちがいたというのです。
それは、「聖戒上人」と「仙阿上人」です。この二人は、どちらも、一遍の実の弟だったという説が有力です。今回は、この二人の足跡を追っていきたいと思います。どうぞご一読ください。
聖戒上人は一遍の伝記の編集者だった?
まず一人目の弟・聖戒についてです。聖戒は、一遍の異母弟ということになるようです。実は、兄の一遍が出家したとき、九州の大宰府にて一遍と共に修行していたというのです。さらに、1273年(文永10年)には、伊予国内の「菅生(すごう)の岩屋」(現・愛媛県久万高原町)で、一遍が修行していたときも、一遍に付き従い、共に修行していたというのです。
つまり、一番弟子とも言えるかもしれませんが、現代では弟子として認知されていない印象があります。実弟であったことと、共に修行していたこともあり、同志という印象が大きいかもしれません。そして、一遍が故郷の伊予国を旅立ち、遊行を始めたのが、第一回目の「元寇」、つまり、「文永の役」(1274年[文永11年])が起きた年と言われていますが、その時、聖戒は、実は一遍に同行していたというのです。
またその時、一遍の妻子(超一と超ニ)も同行していました。初めは、一遍の家族総出の遊行活動だったのです。しかし、その途中、伊予国内の「桜井」(現・愛媛県今治市内)の地で、聖戒と一遍は別れたようです。別れ際には、臨終のときに必ず会おうと約束したと伝わっています。何故、そこで別れたのか?と疑問も出てきますが、何れにせよ、喧嘩別れしたという訳ではなく、前向きな別れだったということです。
一遍は、聖戒と別れた後も、しばらくは、妻子の超一と超ニとは、共に遊行活動をしていたそうですが、後に紀伊半島の熊野まで辿り着いたところでも、その二人とも別れたのです。そのとき、そのことを知らせる便りが聖戒の元に送られたようなのです。その便りには、妻子のことを頼むとの内容も含まれていたのか?
詳しい手紙の内容は、現時点では分かりません。ともかく、一遍は最愛の家族や親族とも離れて、ただ一人になって、苦しんでいる人々を救うという遊行の旅に出たのです。そして、九州の豊後国(現・大分県)に立ち寄り、一遍の事実上の一番弟子として広く知られている真教と出会うとき(1276年[建治2年])までは、ただ一人の孤独な遊行活動をしていました。
その後、一遍の元には帰依する人々が集ってきて、僧団として遊行活動を続けることになるのです。そんな中、聖戒は、再び一遍の元に合流して、共に遊行を始めた形跡があるのです(1276年[建治2年]頃かと言われています)。そして、一遍が臨終のときには、約束通りに聖戒は立ち会っていたと言われています。一遍が亡くなると、聖戒は、一遍の功績を残すために、その遊行の足跡を辿る旅に出たようです。数人の絵師たちを伴って、日本各地の一遍の足跡を丁寧に辿ったとのことです。それから十年後の、1299年(正安元年)『一遍聖絵』を完成させました。
この『一遍聖絵』というのは、一遍の生涯を記した絵巻物の作品で、その中の詞書と言われる文章部分を聖戒が書いたと言われています。つまり、「伝記絵本」の類になる訳です。その中には、一遍の詠んだと伝わる和歌も数多く記されています。
一遍の法話や和歌については、一遍の一番弟子と言われた真教が書き残した形跡もあるようですが、原本が現存し、確認できるのは、聖戒による『一遍聖絵』のみということです。事実上の一遍の言葉の伝令役だったと言えるかもしれません。さらに、聖戒は、道場の建立にも力を注ぎました。「紫台山 河原院 歓喜光寺(六条道場)※」を創建しています。
【※歓喜光寺の創建当初は、京都六条河原にあったが、現在は京都市山科区にある】
そのため、聖戒は、「時衆の六条派」の開祖と言われています。このような聖戒の歩みは、一番弟子と言われていた真教とは別行動だったようです。違うやり方で、兄の一遍の足跡を残そうとしたようです。さて、ここで真教と聖戒の二人の特徴の違いを見ていきますと、興味深いことが分かってきます。
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一遍死後の真教と聖戒の足跡について
まず、真教について見ますと、一遍に帰依していた熱烈な信者たちを引き受け、僧団(教団)の立ち上げに尽力したという印象が強いでしょうか。さらに、法語や和歌の文集を制作したようですが、原本が現存している訳では無く、写本が残っているのみということです。
また、京都の「金光寺(七条道場)※」や、関東では、「無量光寺(当麻道場)」【現・神奈川県相模原市】を創建して、信者たちが集まり、学べる場所を確保するのに尽力したようです。【※金光寺(七条道場)の創建時は京都市下京区の七条通りの材木町にあったが、現在は「長楽寺」(京都市東山区)内に統合されている】
そのため、真教は、まるで学長や教授のような立場で、一遍の教えの伝道者だったと思えてくるのです。ちなみに、時衆の中の数ある宗派の中に「遊行派」がありますが、これが最大宗派であり、真教が開祖となるようです。一方、聖戒は、絵師たちとともに、一遍の功績を残すため『一遍聖絵』という絵巻物の伝記を約十年もかけて制作したのです。
まるで、一遍の伝記本を出版した編集者のようですね。京都に「歓喜光寺(六条道場)」を創建したのも、『一遍聖絵』を残すための文庫(図書館)が必要だったからとも思えてくるのです。事実、江戸時代の幕末までは、それが寺内に保管されていたということです。現在は、「東京国立博物館」と「清浄光寺(遊行寺)」【現・神奈川県藤沢市】に分割保存されているようです。このように見てみると、真教と聖戒、この二人の一遍死後の足跡の違いは、当に正反対と言ってもよいでしょうか。
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一遍の故郷を守った、もう一人の弟の仙阿上人とは?
最後に、一遍上人の、もう一人の実弟「仙阿上人」について紹介します。仙阿も聖戒同様に、一遍にとっての異母弟だったようで、聖戒との関係は兄とも弟とも言われていています。仙阿は「伊豆房」とも呼ばれています(これは出家した僧侶が名乗る「号」です)。
一遍の存命中の行動については謎が多いですが、一遍の死後、一遍の生まれ故郷の伊予国内(現・愛媛県松山市)に戻り、一遍の生誕地でもあった「宝厳寺」を再興したのです。以降、ここは「時衆の奥谷派」と呼ばれるようになりました。また、この宝厳寺は、「道後温泉」からも徒歩で十数分ほどの所にあり、現在も参拝可能な寺院です。 仙阿は、一遍の故郷を大切に守り続けようと尽力したのです。道後温泉の湯守のようにも見えてきますね。
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おわりに
こう見ると、真教、聖戒、仙阿の三人のそれぞれが、師匠の一遍上人の教えを継承する大切な役割を果たしていたと言えそうです。
「三本の矢」の如くとも思えてきますし、豊臣秀吉と豊臣秀長の「豊臣兄弟」の関係の如くとも思えてきます。一遍の影の立役者として、黒子のように、一遍亡き後の時宗の僧団を支えたのです。
【了】
【主要参考資料】
・『一遍聖絵』聖戒 編 大橋俊雄 校注(岩波文庫)
・『日本の歴史 8 蒙古襲来』黒田俊雄 著 (中央公論新社)
・『一遍語録を読む』金井清光・梅谷繁樹 共著(法蔵館文庫)
・ 評論『一遍聖絵の錯簡と御影堂本について』宮次男 著(東京文化財研究所文化財情報資料部)
・『紫苔山河原院・歓喜光寺』の紹介「京都観光NAVI 京都観光オフィシャルサイト より(外部リンク)