「世の中はしょせん、打算だらけ。マンガや小説に出てくるような友情なんて現実にはないんだ!」などとガッカリしている方に、朗報です!
日本史上でもとりわけ過酷で、裏切りや騙し合いばかりだった戦国の世に、まるで少年マンガの世界から飛び出してきたような、友情物語があったのです。
主人公の名前は、近衛前久。公家でありながら織田信長と親交を結び、その天下統一事業にたびたび積極的な協力をしたという特異な人物です。もう一人の主人公が、戦国大名の中でも猛者として有名な、あの人物、島津義久となります!
この記事の目次
文学芸術の話で意気投合?公家と武家という立場の違いを超えた島津家との交流!
二人の出会いは、近衛前久が織田信長の為に便宜を尽くしていた時期。織田信長から要請されたのが、九州方面に下向し、九州大名どうしの対立を調停してよしみを通じておく、というミッションでした。
このとき近衛前久は島津領にかなりの期間、宿泊しましたが、そこで大変な歓待を受けることになります。島津側が用意した歓待スケジュールは、蹴鞠に連歌会、鷹狩にお茶会と、毎日毎日がイベント尽くし。近衛前久も驚き喜ぶもてなしぶりでした。
そういえば、薩摩という遠国にありながらも、島津家は鎌倉以来の武家の名門です。いっぽうの近衛家といえば、摂政や関白を代々出してきた、公家社会のトップに君臨する名門。島津家にとって、その近衛家をもてなしたいという意気込みは、ボッと出の新参戦国大名にはないアツさがあったものと思われます。
のみならずこの頃の島津家には、義久を筆頭に、京都の文学や芸術を薩摩にも伝えてほしいという、名門ならではの都への純粋な憧憬がありました。島津家にとっての近衛前久は、信長からの使者うんぬんという以前に、「京都の流行について教えてくれる文化大使」として、訪問を楽しみにされていたのです。
この機会に、近衛前久と島津義久は、文学や芸術の話で意気投合してしまったようでした。近衛前久が京都に帰った後も、二人の間では生涯、手紙のやり取りが続きます。
前久が島津義久に送った書簡には、百人一首や朗詠集といった文学の話が載っていたり、古典文献が同封されていたり、時には前久自身の和歌をしたためた短冊なども入っていたとされています。
時は豊臣秀吉の世:近衛家のピンチを島津家が救う!
これだけなら、「地方の戦国大名が、宣伝と将来の実益を見込んで、京都の公家の名門とよしみを通じ、なにかとヨイショしていた」だけの話だった、という解釈もあり得ます。ですが近衛家と島津家の友情が本当に試されるのは、この後のこと。
豊臣秀吉や徳川家康といった、時の権力者たちからの熾烈なプレッシャーが、両者にのしかかってきてからのことでした。
まずは近衛家の危機の話から。もともと近衛家は、先述の通り、公家社会の中でもトップクラスの官職を与えられている一族でしたが、かの豊臣秀吉が関白の地位を望んで割り込んできたため、大変な混乱が始まります。
特に被害を受けたのが、前久の息子の近衛信尹(のぶただ)。
もともと左大臣の官職にあったものを、秀吉に「(関白に昇進するためのステップとして)いったん左大臣をよこせ」と無茶なことをいわれ、その秀吉が無事に関白になり安心したのも束の間、今度は豊臣秀次のほうに左大臣ポストを譲れという話に巻き込まれます。
官職を巡る豊臣家とのゴタゴタでおそらくノイローゼになった信尹は、
「このまま死んだほうが良いのでしょうか?」という異様な伺いを神社に立てて周囲を仰天させたり、乱暴沙汰を起こしたり、おおいに精神が荒れてしまいました。
ところが権力者というものは容赦なく、秀吉は信尹の生活がすさんでいることに難癖をつけ、「遠国配流」という沙汰を出したのです。そのとき、配流先として名乗りをあげたのが、薩摩の島津義久でした。
心身衰弱状態の信尹を迎えた島津家は、罪人に対する扱いではなく、大切な客としての歓待を行います。その温かい対応は、配流期間の三年間がおわったときの信尹に、
「薩摩があまりに居心地が良いので、正直、もう京都に帰りたくないなあ」
と言わせたほどでした。
権力者に睨まれてノイローゼ気味だった息子を大切に保護し、幸福な日々を送らせてくれた島津家に対し、信尹の父の前久も大感謝だったことでしょう。
今度は徳川家康の時代:島津家のピンチを近衛家が救う!
恩返しの機会は、まもなく訪れました。
豊臣秀吉が没し、関ヶ原の合戦が起こると、島津義久の弟である義弘は石田三成側の西軍に属して、徳川家康率いる東軍との天下分け目の合戦に挑みます。
結果は、西軍の敗退。島津義弘は手勢を連れて関ヶ原を脱出し、徳川方の追撃と戦いながら薩摩までの帰還を果たすのですが、
大将の義弘を逃すためにたくさんの島津兵が、京都付近で負傷したり、力尽きて行軍から脱落したりしました。このとき、取り残された薩摩敗兵たちを私邸に匿い、徳川方に引き渡さず、傷の手当てをしてやり、命を救ったのが、近衛前久だったのです。かつて自分の息子を救ってくれた島津に対し、敗戦の混乱から多数の兵士を救出するという対応で、見事に恩返しをしたのでした。
まとめ:長い目で見ればこの友情は徳川打倒の布石になった?
その後も義久と前久の文通は続いたようで、最晩年の前久も、「死ぬまでに、もう一度、薩摩旅行がしたいなあ」と繰り返していたそうです。残念ながらその夢はかなわず、島津義久も近衛前久も病のためにこの世を去りますが、厳しい戦国の世で何度もピンチを乗り越え、徳川の時代まで家名を存続させたもの同士として、双方には格別な感情があったことでしょう。
戦国時代ライター YASHIROの独り言
これが、戦国の世に花咲いた、公家と武家との間に生まれた友情の話。ですが日本史のその後の展開を知っている私たちは、この物語に別の解釈もできます。
島津義久も近衛前久も、彼らの死から250年ほど後に、もういちど薩摩の武家と京都の公家が手を取り合い、ついに徳川家を倒すに至るなどとは、夢にも思わなかったことでしょう。
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