武士道と言うと「葉隠」の武士道は死ぬことと見つけたりが有名になりすぎてかなり狂信的な考えに感じてしまいますが、実際には時代により考えに大きな違いがありました。
最初の武士道はギブ&テイク
武士道という言葉の初出は春日虎綱(高坂昌信)の口述が元とされる甲陽軍鑑です。しかし、葉隠の説く武士道とは内容が異なり、主君への忠義よりも「お家第一」が重要でありいかに武功を挙げて領地を獲得し家名を高めて繁栄させるかが第一でした。
これは、鎌倉時代以来同じであり、主君に仕えるのは土地を守ってもらい戦で勝って恩賞を受ける為でそれが保障されないなら主君など裏切って構わない存在でした。
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江戸時代
しかし、江戸時代が始まって幕藩体制が固定化すると「自分の家が第一、主君はその次」では、困るという話になります。そこで中国の朱子学を導入し「なにを置いても父母には孝、主君には忠」という忠孝の精神が重視され武士を教育する上でも徹底されるようになります。
また、事実、戦国の世が遠ざかり大規模な戦争が起きなくなるといかに才能があっても手柄の立てようがなく、いかに現在の仕事を大事にして子孫に伝えるかが武士の一番の関心事になりました。
この中で朱子学に由来する忠孝が広く浸透し、武士道が変容していきます。
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葉隠の登場
しかし、朱子学によってサラリーマン化し、刀は差していても武士の心を失った太平のサムライたちに対し佐賀藩士、山本常朝は江戸中期の1716年頃に「葉隠」を著わしました。
常朝は、マニュアル化した朱子学武士道を嫌い、上方のつけあがりと否定。武士たるものは、常に死んだ覚悟で、いささかも躊躇もせず正しいと信じた行動をただちに起こすべきと説き忠臣蔵の騒動についても「行動が遅い!主君が討たれたら直ちに報復すべきだ。
待っている間に吉良が死んだら仇討ちができないではないか」と否定はしませんが落ち度ありと評価します。
葉隠は、いざ事が起きたら、あれこれ考えるのではなく死が近い方を選ぶべきであるとして、頭ではなく不断の死の覚悟と胆力が武士の行動原理であると説きますが、江戸時代には危険思想とされ一部の人間のみが閲覧を許される禁書扱いであり、広く公開されたのは明治時代に入ってからだそうです。
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日本史ライターkawausoの独り言
このように武士道は時代で変遷を重ねていました。しかし、武士が本来、戦場で命を懸ける戦士である以上主君の為であれ、家の為であれ、常に命を賭していたのは否定しようのない事実のようです。
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