切捨御免といえば、時代劇などで武士が町人を斬り捨てるシーンとしてお馴染みです。
昔の時代劇では悪人顔をした武士が、罪もない町人や村人を気分で斬り捨て憂さを晴らすような描写がされ、特権階級である武士の横暴のように扱われた切捨御免ですが、その実態はどんなものだったのでしょうか?
この記事の目次
切捨御免はなぜ生まれた?
切捨御免とは、無礼討ちとも言われ、苗字帯刀とともに江戸時代の武士に認められた特権です。天下泰平となった江戸時代、国内では戦がなく戦士としての武士は外面からは認識できなくなりました。
そのため、武士だからといって自然に尊敬されるような事はなくなり、武士に反感を持つ下級階層からバカにされ、体面が傷つけられる事態が発生しました。
武士が罵倒されるのを放置しておけば、身分秩序の上に成立する江戸幕府の根幹が揺るがされるので、幕府は武士が耐え難い「無礼」を受けた時には、相手を斬っても処罰されないとする切捨御免を法律において成文化します。
こうして「武士をバカにした者は斬り捨ててよい」というお墨付きを武士に与え、いわれなき中傷から守ろうとしたのです。ただ、江戸時代には、手討、打捨という言葉しかなく、切捨御免という言葉は明治以降に出来た比較的新しい言葉であるようです。
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無礼とは何を意味する?
では無礼とは具体的に何を意味するでしょうか?
大体、切捨御免に該当する無礼は以下の3つが該当しました。
・発言の無礼:目上の人や年上の人に敬語を使わなかったり失礼な言動をする
・行動の無礼:武士に対して故意に衝突したり、道を塞ぐ、唾を吐くような行動をする
・正当防衛:突然に殴られたり、蹴られるような狼藉に対して自分の身を守る
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切捨御免は殺人特権ではない
ただし、これらの無礼に該当すれば直ちに斬り捨てていいというわけではありません。報告されている切捨御免のケースでは、まず武士が相手に無礼を止めるように注意し、それでも聞かずに無礼を働いた場合に切捨御免が実行されています。
また、切捨御免の権利を行使すると、ちゃんと届け出て藩や幕府の吟味を受けねばならず放置して立ち去る事は許されていません。
昔の時代劇で見られるような、武士が面白半分で町人を切り捨て、そのまま立ち去るような事は切捨御免とは認められず、殺人罪で下手人として捕縛されました。切捨御免は殺人特権ではなく、普通の武士は生涯行使する事がありませんでした。
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切捨御免、いつからあるの?
切捨御免は武士の特権として、長らく慣習として認められていました。しかし、8代将軍吉宗の時代になると、公事方御定書の71条人殺並疵付等御仕置之事の中に、
一、足軽身分でも、町人や百姓に耐えがたい罵詈雑言のような不届きをされ、これを止める方法がない時には、斬り殺しても調査の上で証言に偽りがなければ無罪とする。
この一文があり、公事方御定書が成立した宝暦4年(1752年)からは切捨御免が法的に確立します。
ただ、繰り返すようですが、武士は無礼を受けたら、ただちに相手を斬ってもよいのではなく、無礼を止めるよう相手に警告するなどアクションを起こす事が求められていて、止める手立てが尽くされていない場合には、罪に問われる事もありました。
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切捨御免を回避する手立て
切捨御免については、各藩も神経をとがらせていました。特に参勤交代で江戸詰めになった藩士が江戸の町人との間で諍いを起こして切捨御免の事態にならないように、トラブルを起こすなと再三注意喚起をしています。
江戸の町人の中には、ゴロツキやヤクザ崩れもいて、粋を気取って地方から出てきた武士を田舎侍とからかうようなケースがあったのです。
こうした事態を回避すべく、江戸中期以後には、芝居小屋や銭湯のような公共施設では、刀を預ける刀架所が下足所の横に設けられトラブルが起きても刃傷沙汰にならないように工夫が施されます。
江戸時代では、刀は抜かないのが美徳とされ抜くときは目の前の相手を斬る時でした。その事を江戸の町人は知っていて、数名でグループになって武士を怒らせて刀を抜かせた上で、口裏を合わせ武士に不利な証言をして相手を陥れる事もあったようです。
こういう事を考えれば、武士にとっても、手元に刀がなければ「斬ってやりたいが、生憎手元に刀はない、命拾いしたな貴様ら」と武士の体面を傷つけずにその場を切り抜けるよい方法でした。
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切捨御免以外の武士の特権
切捨御免以外の武士の特権は、苗字と帯刀です。以前は、江戸時代の庶民に苗字はないとされ苗字は武士の特権とされました。
しかし、最近の研究では武士に対しては、生意気と取られるので名乗らなくなっただけで、庶民同士では屋号の形で苗字を名乗っていた事が分っています。江戸時代の名前は、大体種類が決まっているので屋号で区別しないと、どこの権兵衛さん?という事になるので必要不可欠だったのです。
屋号は、大体住んでいる土地に由来していて、田んぼの前だと前田の金兵衛とか川の上流なら川上の久蔵とかでした。渡世人の時代劇でも清水の次郎長とか黒駒の勝蔵とか屋号が苗字のようになっています。
もう1つの帯刀ですが、これは大小二本の刀を差す権利を言います。どうして、大小二本かというと脇差だけなら庶民も差す事が出来たからです。脇差は、護身用として携帯が認められていて、商人のような財力がある人は意匠を凝らした贅沢な脇差を作り多く残っています。俗にサムライの事を「二本差し」というのは、大小の刀を差す事が出来るのが武士だけである事を意味しているのです。
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切捨御免のケース
実際の切捨御免のケースとして以下の話があります。
尾張藩士の朋飼佐平治は、雨の日に傘を差して歩いていると、町人がぶつかってきました。佐平治は「武士にぶつかっておいて詫びもないとは無礼であろう」と咎めます。
ここで町人が謝れば、問題は起きなかったのですが町人は無視して逃げようとします。怒った佐平治は無礼討ちにしようと町人を追いかけて捕まえますが、丸腰の相手を斬るのは武士の名折れと、脇差を差し出して掛かってくるように命じます。
しかし、脇差を与えられた町人は、そのまま逃げてしまい、さらに佐平治を負かして脇差を奪ったとデマを流してまわります。佐平治は脇差を渡した事を後悔しますが、この落とし前は必ずつけると書置きを残して藩を出奔し、自分を中傷した町人を見つけ出すと、一家全員を撫で斬りにして滅ぼしたそうです。
武士の誇り高さを示す話でもあり、雨の日にぶつかった事くらい見逃せば、藩を出奔しないで済んだのにと思える話でもあり、何とも複雑ですね。
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切捨御免はいつまで続いた?
切捨御免は明治四年の太政官布告で正式に廃止されました。明治政府は欧化政策で、ヨーロッパ流の市民平等を採用して身分としての武士は消滅したので、武士のプライドを守る切捨御免も不要になったのです。
明治9年には、相次ぐ士族反乱を受けて武士の帯刀も禁止となり、切捨御免をしたくても刀を差す事が違法となって長年続いた慣習も消滅しました。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は切捨御免について解説しました。切捨御免が制定されたのは、太平の世で武士が下の階層から侮られても反論できずに、身分秩序が揺るがないようにするための措置であり、武士がやたらに刀を振り回し民百姓を斬る事を認めるものではありません。
そして、実際に行使しても、それで終わりというわけではなく、ちゃんと事実を届け出て、藩や幕府の取り調べをうけねばならず、ストレス発散でやれるような簡単な代物ではありませんでした。
むしろ、切捨御免がある事で「斬ってみろよ~」とガラの悪い町人に刀を抜くよう仕向けられる事さえあり、武士の方でも用心し、銭湯や芝居小屋では刀を預けて手元に置かないなど自衛手段をとっていました。
確かに武士に取っては、自分の名誉を守るための特権と言えば特権ですが、出来れば使いたくない特権でもあったのです。
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