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関所破りとは?関所破りの罪状から色んな「関所破り」紹介


 

コメントできるようになりました 織田信長

関所

 

 

関所破り、それは重罪。関所破りをしてしまうとその罪は命で以て贖わなければならない……とは聞いたことがあるものの、実際には関所破りにはどんな罪が関所破りには科されていたのか?

 

今回は関所破りについて、関所破りの意味からその罪状までを調べてみました。更には様々な「関所破り」についてのお話も紹介していきましょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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関所とは何?様々な要素を内包した「関」の存在

 

さてまずは関所に付いて。関所、ないし関とは施設の一つです。交通の要である場所に設置し、検問や徴税が行われました。徴税による収入も目的であったとされていますが、怪しい人物が入り込まないようにすることで治安の維持、更には敵国の間者の侵入を防ぐための防衛に関する目的もあったとされています。ただ関所と一口に言っても、その目的は様々な物であった訳ですね。

 

 

太古からある関所、関所の歴史

日本書紀の表紙 書類

 

この関所の歴史は古く、飛鳥時代、もしくは天智天皇の時代から「関」の存在がありました。太古では防衛の目的が大きかったと思われますが、その後、戸籍登録が始まると民たちは自由な関所間の移動も難しくなっていきます。関所を越えるには様々な手続きがあり、所謂、手形が必要になったからですね。

 

敵将の頭蓋骨を盃がわりにして酒を飲む織田信長

 

この関所は戦国時代に織田信長おだのぶながが廃止していくのですが、江戸時代になると再び設置されていきます。

 

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関所破りの罪状とは?いつからできたの?

Edo-Castle(江戸城)

 

良く聞く「関所破りは重罪だ!」という話ですが、その関所破りに対する刑罰に付いて確認することができるのが、江戸時代に作成された「公事方御定書」です。これには

 

「関所を除山越いたし候もの並関所を忍通候者御仕置之事」

 

ポイント解説をするセン様

 

とあり、関所を通らずに山を越えた者は磔、と刑罰が記されています。これを見ても分かるように、関所破りとは言うけれど、語感が似ている道場破りのように真正面から関所に押し掛けるのではなく、山を越えたりするなどの迂回路を使って関所破りがなされていたのです。まあ常人では真正面からの関所破りは難しいでしょうからね……。

 

 

関所破りは実際にはどれだけあったのか?哀しい伝承と共に

Schipperke(スキッパーキの子犬)はてなver

 

さて実際にどれくらいの関所破りがあったかどうかははっきりとは分かりません。関所破りは主に密告で発覚したため、密告されていない、確認されていない関所破りも存在した可能性もあったためです。ただ庶民の間では関所破り、というのはある種の伝説、伝承として残されているようで、このような話があります。

 

お玉という娘が奉公先から実家恋しさに、里帰りをしようとしました。しかし通行手形がないため、山を越えて関所破りをしようとしたのです。ですが関所破りは発覚し、お玉は死罪とされて斬首されました。その少女を哀れんだ村人たちが、晒された首を池で洗ったことから、お玉ヶ池、という池が生まれたという話です。

 

実在するお玉の池、伝承の元とはどこにあるのか?

 

このお玉のお話、お玉は旅芸人の一座の一人で、座に嫌気がさして逃げ出そうとするも、手形が必要だということを知らずに関所破りとなってしまい、逃げた先で池に身を投げたからお玉の名前が付けられたとか、少々元の名前が付けられた経緯がはっきりとはしません。

 

ただしこの池は実在しており、現在も神奈川県足柄下郡箱根町で観光スポットとして訪れることができます。話の元ネタははっきりとはしないものの、関所破り、というのは民衆の間では良くある「話」だったのかもしれません。では哀しいお話をしてしまったので、全く方向性の違う有名な「関所破り」の話をしましょう。

 

 

忠義の姿を描いた関所破り「勧進帳」

 

まずは有名な歌舞伎の演目、勧進帳。これは史実の話ではありませんが、元禄15年、江戸時代の最中に生まれた演目です。内容はかいつまむと、逃亡中の源義経一行が関所を通り抜けるため、山伏に偽装します。ここで疑いを持たれるものの、弁慶は白紙の勧進帳を淀みなく読み上げ、門問にもスラスラと答えていくものの……それでも疑われた義経を庇うため、わざと……というお話。

 

創作とは言えこのような話ができるということは、民衆の間での周知の高さも窺い知れますね。

 

これぞ本物の「関所破り」!?

oda-nobunaga(織田信長)

 

もう一つはさて織田信長おだのぶながの時代。信長が京の都に館を構えた時の事、瀬田の橋に関所を設けておりました。ここで大名たちはここで下馬をして名前を名乗り、記載せねば通れなかったのですが……ある日、一人の急ぎ足の若者が通りかかります。急いでいるから通せと言う若武者、規則を守って頂かねば困ると言う関守。

 

激怒した若武者は関守切り殺し、そのまま通過したのですが、これを聞いた織田信長おだのぶなが、笑ってこう言いました。

 

「鬼武蔵であればしかたない」

 

このお話、鬼武蔵と呼ばれた森長可のお話であり、真正面から関所破りをした逸話の一つです……まあ味方の関所を破っちゃっている訳ですが!こういう関所破りもあるので、戦国時代では関所守も命がけだったのかもしれません。

 

 

戦国ひよこライター センのひとりごと

日本史ライター セン

 

さて今回は関所と関所破り、そしてその関所破りに関する逸話や伝承、物語もご紹介させて頂きました。例に出しました通り、勧進帳は創作であり、史実とは異なります。ただこの生まれを考えると、関所、そして関所破りもまたテーマの一つとして、民衆の間ではある種、親しまれていたのではないでしょうか。

 

現代ドラマでもセキュリティや身分証明などのシーンは、どうやって潜り抜けるのか?とドキドキしてしまいますが、昔の人ももしかしたら、同じだったのかもしれませんね。ちゃぽーん。

 

参考:日本書紀 「日本古代の交通・流通・情報 1 制度と実態」

 

47都道府県戦国時代

 

 

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自己紹介:日本史はあちらこちら、面白そう!と思った所を色々と見ていくのが大好き。どこも面白くて目移りしてしまいますが、特に戦国時代が大好物。様々な勉強ポイント……よりも、ちょっとクスっとしてしまうような小話を交えつつ、皆さんと沼にハマっていきたいと思います、どぼーん。 好きな歴史人物:織田信長 斎藤道三

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