戦国時代の英雄、織田信長。彼の登場によって日本にはさまざまな革新がもたらされ、そのおかげでまったく新しい時代が訪れた。それが長年の通説でした。
しかし、まさに諸行無常、どんな「通説」にも寿命があるらしいのは、歴史ファンなら覚悟されている通り。最近では、この通説にチャレンジする新説、すなわち信長はむしろそれまでの室町時代の常識に則った権力体制にとらわれており、真に革命的だったのは豊臣秀吉以降である、とする説が出てきております。
その見方を取ると、織田信長が「革命的な天才」であったというのは、大部分が後世の創作であった、となってしまいます。信長ファンには、いささかがっかりする点も多い、こうした最近の風潮。
それらの新説を蹴散らすのはシロウトの歴史ファンにはとうてい無理ですが、しかし私も信長ファンの一人として、多少の抵抗を、試みてみたいと思います。
たとえば、よしんば織田信長自身が、後世創作されたほどの革命的な政治家ではなかったとしても、彼が登場しなければその後の日本史の発展は遅れたはずだ、という抵抗を試みるのは、いかがでしょう?
すなわち、「織田信長が登場しなかった場合、その後の日本史はどうなっていたか」を考えるイフ考察です!
この記事の目次
信長のキャラクターがどうであれ既存の勢力図をブチ壊したことは間違いない!?
史実の信長の立ち位置を整理してみましょう。彼は現代でいう愛知県、名古屋の辺りを本拠地として、岐阜を占領し、そこから近畿地方一帯を占領して京都で権力を握った人物です。徳川家康との同盟関係をも考慮に入れれば、近畿のみならず、今でいう東海地方も事実上の勢力圏だったと言えるでしょう。
さらに晩年にはほぼ武田氏の所領も陥落させており、その勢力図は中部を飲み込みかけておりました。日本地図を見ても、信長が一代で築き上げた版図がいかに広いかに驚かされます。
どんなに信長のキャラクターや、政策の革新性について、新説が出てきたとしても、「一代で日本の中心にこれだけの版図を作った」という事跡だけは、揺るがないはずです。その上で、信長がこの版図を作り上げるために倒した諸大名の名前を連ねてみましょう。
今川氏、武田氏、三好氏、松永氏、斎藤氏、浅井氏、朝倉氏。特に今川、武田、三好は、室町体制下の超大物!彼らを倒して、勢力均衡状態になっていた戦国日本のバランスをぶち破っただけでも、日本史を新しい時代に持ち込む信長の貢献度は決定的だったのではないでしょうか?
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もし織田信長以外の当時のオオモノが京都に入ったら?
織田信長が登場しなかった、と仮定しましょう。この場合の戦国時代の展開は、以下のようになっていたことでしょう。
・京都界隈では、三好氏と松永氏が一進一退の駆け引きを続ける。
・そこに今川義元が京都に入って権力争いに加わっていた・・・かもしれない。
・さらにそこに武田信玄が京都に入って権力争いに加わっていた・・・かもしれない。
このように、いろいろな勢力が京都を中心に覇権を競うカタチとなるでしょうが、三好も松永も今川も武田も、足利将軍家を奉じてその下で権力を掴もうとする発想の人たちです。
今川義元にせよ武田信玄にせよ、彼らが京都に入って足利家と組んだとしても、せいぜいが近畿一帯を手中に収め(それだけでも、当時の常識からすればじゅうぶん偉業なのですが)そこでとどまるのではないでしょうか?日本全土を統一して、検知や刀狩を強行するような壮大なプランに持ち込めたとは、なかなか思えないのではないでしょうか?
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信長一人がいないだけで、日本統一が数百年遅れた危険がある?
この構図は、日本史でいう南北朝時代を想起させるのではないでしょうか?
南朝と北朝の戦いは、足利家が京都を抑えてもそれだけでは決着がつかず、その後長きにわたって、京都を奪ったりまた奪い返したりの戦いがずるずると続きました。室町体制の発想から出られない人が京都に入ったとしても、南北朝と似た展開になったのではないでしょうか。
「今川勢が京都を取り返し足利家と和解した。いや、また武田勢が京都を取り返し、芦川家と和解した」の繰り返しが起こり、日本統一は数百年遅れたのではないでしょうか。
ヘタをすれば、西欧列強の帝国主義が襲ってくる際に、まだ日本は戦国時代のままで、各地の大名が個別撃破され、日本は他のアジア諸国のように植民化されていたかもしれません。
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まとめ:織田信長最大の功績は、よいところで本能寺にて死んだこと?
こうしてみると、よしんば織田信長本人が後世伝えられているほどの革命児ではなかったとしても、この時点で京都に入り、今川氏と武田氏を潰し、さらには日本全土統一という大目標を掲げた時点で、じゅうぶんに日本史のその後の展開に貢献した、といえそうです。ただし、こう考えた時にひとつ、信長本人は不都合かもしれない点が見えてきます。
新時代への基礎を築いたのは、むしろ後継者の豊臣秀吉。つまり、信長の破壊の跡に、秀吉が出てきたおかげで、日本の変革が可能となった、と言えそうなのです。
信長の登場は日本史に必要だったが、秀吉に権力を譲ることも、日本史のためには必要だった。となると、史実における信長の功績は、「旧体制のめぼしい大物たちを一掃した」うえで「その本人が、いいタイミングで死んでくれた」ことにあるのではないでしょうか。
となると、本能寺の変は、まさにこの上ないタイミングで起こってくれた、日本史の僥倖日本史への功績者は、織田信長本人というよりも、信長、光秀、秀吉の三角関係のバランスであった?!
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戦国時代ライターYASHIROの独り言
こうしてみると、明智光秀こそ、ジュリアス・シーザーをよいところで殺したブルータスの如く、「逆説的な意味での、歴史への大貢献者」だったのかもしれません。信長本人としては、「光秀よ、お前もか!」と叫びたくなるような、悲劇的な運命となりますが。
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