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和田義盛を滅ぼした人は北条義時!幕府熾烈な権力争い

05/08/2023


 

コメントできるようになりました 織田信長

和田義盛が希望していた侍所別当を任命した源頼朝

 

和田義盛わだよしもり」は頼朝の挙兵から彼に従い、平氏との戦い続けた人物です。特に「源範頼みなもとののりより」と共に西国で活躍したことで知られていますね。

 

十三人の合議制の仕組みを作った北条義時

平氏滅亡後も幕府内で重きをなし、「13人の合議制」にも名を連ねています。しかし、最期は御家人たちの権力争いに巻き込まれ、結局は北条義時ほうじょうよしときの陰謀により滅亡してしまいます。

 

北条義時の側近としても暗躍していた善児

 

今回の記事ではそんな和田義盛わだよしもりの生涯と、彼の最期と「滅ぼした人」北条義時ほうじょうよしときとの関係について調べてみましょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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頼朝の挙兵から従う和田義盛

和田義盛 鎌倉殿の13人 武士

 

和田義盛わだよしもりは相模の国で勢力を持っていた「三浦氏みうらし」の一族にあたります。彼らは頼朝が平家打倒のために挙兵するとそれに従いますが、一度は平家に敗れ、頼朝らとは離れてしまいます。しかしのちに合流し、義盛は「父が死に、子が死んでも、頼朝公の姿が見られるならばこの上ない喜びです。ぜひ天下を取ってください。その時は私に地位をお与えください。」と言ったとか。

 

 

各地を転戦した和田義盛

平家を挑発する目立ちたがりの和田義盛

 

義盛はその後平家との戦いで各地を転戦。主に頼朝の弟「源範頼みなもとののりより」と共に中国地方、九州など西国で戦いますが、戦いは苦戦し、「義盛は密かに鎌倉に帰ろうとしている。」と、報告されています。

 

 

源義経の八艘飛び

 

しかし、のちに盛り返し、「壇ノ浦の戦いだんのうらのたたかい」で平家は滅亡することになります。この戦いで義盛は弓の名手として活躍をしています。

 

 

源義経に寄生するキングボンビー源行家

 

平家滅亡後は「奥州征伐」で奥州藤原氏おうしゅうふじわらしとの戦いで活躍し、頼朝が上洛した際には功績をあげた10人の御家人の一人として官位を授かっています。

 

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源義経

 

 

 

鎌倉幕府で激しい権力争いがはじまる

鎌倉幕府を開くが急死した源頼朝

 

頼朝が亡くなると、2代将軍頼家の独断専行を防ぐために「13人の合議制」が始まるのですが、義盛もこれに名を連ねています。

 

梶原景時の失脚を見届け、安らかに病没する三浦義澄

その後は鎌倉幕府かまくらばくふ内で権力争いが激しくなり、まずは政敵への讒言を繰り返していた「梶原景時かじわらけいじ」が討たれます。この際、多くの御家人が景時の弾劾状に名を連ね、当時幕府内で高い地位だった「大江広元おおえひろもと」に提出します。

 

鉄の心を持つ大江広元

 

しかし、大江広元おおえひろもとは御家人たちの亀裂を恐れて弾劾状を自分の所で止めていました。これに義盛は怒り、「あなたは関東で鎌倉殿手足になって働いているのに、景時を恐れて御家人たちのうっ憤を止めているのは法律に違えるのではないか?」と迫り、広元に弾劾状を将軍頼家に提出させることに成功します。

 

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源頼朝

 

 

 

次々と排除される有力御家人たち

謀反の疑いで挙兵に追い込まれる畠山重忠

 

梶原景時かじわらけいじは討たれ、続いて「比企能員」「畠山重忠」など、幕府設立に貢献した御家人たちが次々に排除されていきます。また、将軍の頼家でさえも幽閉されてしまいます。

 

2代目執権に就任する北条義時

 

こうして北条家の権力が高まることになるのですが、その北条家の「北条時政」も失脚し、鎌倉幕府かまくらばくふの権力は2代執権である「北条義時ほうじょうよしとき」に集まることになるのです。

 

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嫌がらせを受ける義盛

戦いを決意する北条義時

 

徐々に北条義時ほうじょうよしときに逆らう御家人は少なくなりますが、義盛は健在でした。彼は幕府の功臣として「国司」の地位を望みますが、「御家人がその職に就くのは前例が無い。」として北条家によって拒否されてしまいます。

 

常に勝ち馬を当てる北条義時

 

実際には前例は有り、これは北条家による嫌がらせと考えられます。そして義盛の甥、息子らにより北条家転覆計画が露呈、義盛の嘆願により子は許されますが、甥は許されず、流刑となりました。

 

声を挙げて泣き首を取られた和田義盛

 

義盛は鎌倉の甥の屋敷を望みます。これは「罪人の屋敷は同族に引き渡される」という習わしがあったからです。しかし北条義時ほうじょうよしときはこれを拒否、他の御家人に与えてしまいます。これらの嫌がらせにより義盛の義時への不満は高まっていきます。

 

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和田合戦

ドンドン出世していく和田義盛

 

明らかに自分も排除しようとする北条義時ほうじょうよしときに対し、義盛の不満は高まっていきました。そしてついに義盛は挙兵を決意、この噂は鎌倉を駆け巡り、当時の将軍実朝は義盛に思いとどまるように言います。しかし義盛は「実朝様に恨みはありません。とにかく北条義時ほうじょうよしときが傍若無人で、彼を問い詰めたいだけです。」と聞き耳持ちませんでした。

 

息子の死に戦意を喪失する和田義盛

 

義盛は挙兵し、鎌倉軍との戦いが繰り広げられました。和田一族は強く、焦った義時は将軍実朝の名前で義盛討伐の命令を発します。すると幕府軍は盛り返し、和田一族は次々と討たれ、義盛も討たれてしまいます。こうして北条義時ほうじょうよしときに逆らう御家人はほとんど居なくなったのでした。

 

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鎌倉殿の13人

 

 

日本史ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

和田義盛わだよしもりを滅ぼした人は北条義時ほうじょうよしときと言っても良いでしょう。義盛は義時の挑発に乗ってしまい、ついに謀反を起こしてしまいました。物事を判断するには「冷静さ」が肝心だと思わせるエピソードですね。

 

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みうらひろし

日本史で好きなところは一つの「決断」が大きく世の中を変えてしまうことでしょうか。そんな中でも「決断」にミスをしても、その後復活したりする人物には尊敬をかんじますね。自分もミスしてもあきらめずに過ごしたいものです。
好きな歴史人物:長宗我部盛親、立花宗茂

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